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雨降って地かたまる。邪馬台国論争のあらましが簡潔明瞭でスッキリします。論争の相違点を無理矢理合わせる必要なしと思ってます。決定的な物証が出土しない限り並行線です。仮説おおいに結構とも思ってます。 九州 畿内以外もない話じゃない。阿波説以外は…
ありがとうございます。「仮説おおいに結構」。まさにそのとおりだと思います。
動画をアップしていただきましてありがとうございます。うぷ主さんの肩を持つわけではありませんが、主たる塚と陪塚の存在を確認できる場所が有利かなと思います。九州の大雨のご心配いただきましてありがとうございます。
ニュースで強い雨と聞いていたから、土砂崩れとか、いろいろ心配するところもありました。奴婢百余人。私もこれがキーのような気もします。ないと言ってしまえば終わりだけど、あると言えば、これほどの特徴はないといった代物。
末盧國は今の玄海町の可能性はもあるような。諸(浦)→もーろぅーこく→末盧國呼子や唐津付近なら伊都国との間を舟で移動できるところ、前も見えないほどの草木のなかを進む理由がよく判らない。が、玄海町から伊都国の間は、ある程度内陸を歩く訳は判ります。その代わり、距離が壱岐から玄海町までと余り変わらなくなりますが。粗案なので、真に受けないで下さるとありがたいです。
九州説の場合、末盧國あたりで意見が分かれてきますね。
特定の区域に邪馬台国は無く、欧州連合とか合衆国みたいだったら、卑弥呼の墓(ロサンゼルス)とか家(ニューヨーク)とか城(ワシントン)が別々の場所に離れてあったら発見は無理かも🤔
確かにその可能性もゼロではないです。時代的に集落と墓が近いとみんな想定するところですが、卑弥呼の墓は一点ものだから規格外のリスクもあります。実際、首都は邪馬台国では墓は伊都国という説もあったかも。
魏志倭人伝には「南至邪馬壹國女王之所都、水行十日陸行一月」とあります。一般には「南にて邪馬壱国に至る。女王が都をおくところ(東亜古代史研究所)」「・・・女王が都べる(統べる)ところ(Wikipedia)」と読まれています。私は「南にて邪馬壱国の女王の都となる所(意訳で母国)に至る」じゃないのかと思います。中国語で都というと、先祖からの墓がある所という意味もあります。であれば卑弥呼は伊都国にいたけど、お墓は母国かも知れません。余談です陳寿さんの母君が亡くなった時、遺言に従って出身地ではなく居住地に埋葬し非難を浴びました。出身地に埋葬というのは、意外と普通だったかも知れません。今だって東京都民が「うちの墓は九州にある」なんて珍しくないですし。余談2狗邪韓国の「邪」対馬の「馬」壱岐の「壱」をまとめて略称で「邪馬壱国」と言ったとも勘繰ってます。であれば、魏志に書かれた「今使者が通じるのは30国」の総称かもしれません。
妄想です。豊葦原(葦原の中つ国)之千秋長五百秋之水穂国はいたくさやぎてありなり。此の葦原の我が御子の知らす国と言依さし賜へりし国なり。と言って高木の神と天照大御神が大国主神に国譲りを強要し天孫降臨となる訳ですが、なぜか筑紫の日向に天降ってます。でもこれを先代旧事本紀で補完するともう一つの天孫降臨があって難波の日下(ひのもとのくさか)にニギハヤヒさんが天下っています。つまり時期が同じか否かは分かりませんが本来神話には二つの天孫降臨があったのだと思います。天孫降臨を命令した主体(高天原)が九州にあってそれが邪馬台国と云われる集団であったと思います。ちなみに日向に天降ったニニギさんの集団は日本書紀によると(そししのむらくに)だから豊かな国に行こうと言って畿内ヤマトに東遷します。自分は日本神話には多くの重層構造があって例えばオオクニヌシとヤチホコの神、オオナモチの神は重複した別人格だと思っています。とくにヤチホコノカミとオオナモチは九州の神様なのではないでしょうか。邪馬台国以前の支配者層を髣髴とさせます。
二つの天孫降臨。実際、記紀ではそういった世界観ということになります。そのあたり、単なる神話ではなく、史実を核としているのではないかと私も考えています。また、神話の重層構造も神話に対するオーソドックスな理解だと思います。
日本人は、現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし完成したのは崩御から34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。日本の建国の史実が都合が悪いので、神話を創作して史実を隠したことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が日本紀講に当たり突然表に出してきたものです。それまでの正史などに一切記載はありませんし、日本書紀にも参照した痕跡はありません。人長が創作したものなのです。日本書紀に添って書かれていますが、所々違えています。不比等に隠された本当の歴史に導くための暗号書だったことが、空白の四世紀と倭の五王の系譜を調べて分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。古事記は江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らに人気となりました。明治になって、それまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた記紀神話と全く別物の神話が存在していましたが、神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました(詳細は「アマテラス大神はヘビだった?」「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)。国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それは本来のものではない全く新しい神話なのです。というか、藤原氏が権力を維持するために捏造した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきますよ。詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
@@katumoku10 ありがとうございます。一つ一つの内容が壮大なので、なかなか読む時間がありませんが、少しづつ読んで、いろいろと学べればと思います。
@@takedaharuki さん 有難うございます。思いつく限り考古学や民俗学などの事実で検証し、途中は推理ですが、妥当な演繹法で推論をしたつもりです。この手法は私が古代史に適用しただけで、発見的な推論法であるアブダクションと呼ばれる仮説構築の手法です。詳しくは【刮目天の古代史】古代史を推理する」にありますので、どうぞご参照ください。人間は間違う動物というのが前提ですから何度でも検証するわけですが、やっていくうちに確信に変わります。ですから、別の方が異論を言っていただくのが真相に迫るやりかたなので、どうぞよろしくお願いいたします(^_-)-☆
@@katumoku10 こちらこそありがとうございます。お互いに刺激しあって成長できればと思います。
3:33「径ってのは直径という意味では無い。差し渡しという意味です」と書かれたが…。気になってGoogle教授に尋ねたところ、「差し渡し」の意味の1つに「直径」があった…。
確かに「差し渡し」を「真円のものにだけは使ってはいけない」ということはないです。よく理解して欲しいのですが、私の言いたいのは「真円のものにだけ使うとするのが間違っている」ということです。
毎日1時間以上10ヶ月間 邪馬台国解決に情熱を傾け 今日も安本美典先生の 邪馬台国は福岡県にあった畿内説は有り得ないを一時間半講演会視聴して私の伊都国邪馬台国説に変化はないし賛同者が知る限り二人しかいないことにむしろ不思議に感じる 京都大学文学部卒業で内藤湖南さんと同じでびっくりで国立大学文系卒の私で恐縮ですが文学部だけでは解決できないと思った 今日夜19:30より30分邪馬台国を取り上げろ様だがBSで2時間は必要なんじゃないかと思う 中国の学者は九州説を支持してるし魏の国書で地理で南を東に捏造するのはご法度に近い 伊都国の比定から議論してもらいたい 糸島99%確定を疑ってほしい
クローズアップ現代。是非、見たいです。糸島あたりについては非常に興味があります。最近の邪馬台国論争って、そんなあたりを扱わないから少し寂しい気もします。昔は原田大六の名前とかよく出てきていたのに。
素晴らしい内容です。
ありがとうございます。難しい説とかはさておき、今回は基本的な部分を整理してみました。基本的な部分が整理されると、論争のレベルも上がるはず。
とにかく自分がここだと思う場所一帯を、刑事の現場百回のごとく春夏秋冬、隅から隅まで歩き回ってみることですね。そして当然ながら、反対論者の唱える場所も。いくら文献を読み込んだところで、その土地が持っている独特の空気感、それを自分の肌身で感じとらねば、しょせん机上の空論でしょう。
おっしゃるとおりです。フィールドワークは大事だと思います。また、地域を越えた流通も重要になってくる時代なので、時間がかかっても各地を見てまわりたいです。このチャンネルも割と各地を放浪しているチャンネルではありますが、まだまだ見ておきたいところが山積みです。
地元に西暦700年頃の新田の柵という城柵が現在もあります。そこには土塁が築かれていて小高い丘になっていることから邪馬台国も小高い丘に囲まれているのではないかなと思ってました。
私も土塁のようなもの、濠を掘って、その土を積み上げて堤上にしたもの、そんなものをイメージします。ただの柵だけってことはなく、土塁があるから城という字を使っていると私も思います。
いわゆる、邪馬台国東遷説がありますけど、魏志倭人伝には、トヨの記載はあるけど、国が、東に移ったと言う記載はないので、少なくとも、トヨの時と、卑弥呼のときは、邪馬台国は、同じ場所だったと思うんですけど、仮にその後東遷したとして、その東遷したところを、邪馬台国と言うのは、変だと、個人的には思うんですけど、あくまで、卑弥呼、トヨが居たところが、邪馬台国だとなので、東遷説って、意味あるのかなあ?
卑弥呼と台与の邪馬台国は同じ場所だと私も思います。ただ、台与の晩年については記録ないので微妙なところかも。しかし、東遷って意外と大した話ではないのかも知れません。大和王権の王たちは世代毎に遷宮してますし。
邪馬台国というのはヤマコク(宇佐市安心院町宮ノ原遺跡、和名抄の野麻郷)に居る台(女王)の国という意味ですので、最初卑弥呼(宇佐神宮比売大神、宗像女神イチキシマヒメ)が居た場所です。卑弥呼の死後に内戦があり、その勝者が13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てたということで、台与が居た場所は転々としていることを突き止めました。勝者は後で日本列島のほとんどの部族を傘下にしたので記紀神話で大国主とされた日本建国の主役です。山陰から越を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王です。豊岡市久久比神社の祭神で、上棟式の木霊とされたイタケルの子孫久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)です。最初は宇佐市安心院町妻垣神社で大国主のいとこの卑弥呼を弔った後に、米神山で佐田京石などのストーンサークルを作って父の先代狗古智卑狗の霊を呼び寄せる儀式を行っています。この佐田地区で最初の国造りを行いました。記紀神話の豊葦原の瑞穂の国です。大国主は卑弥呼よりも二十は若かったですが、五十過ぎの老人ですので、孫みたいな年の台与を妃にしています。その後に、投馬国と考える福岡県みやこ町にも滞在し、伊都国や父の息長宿禰王が治めている華奴蘇奴国(吉野ヶ里遺跡)に行ったり、あちこち出歩いています。あ、吉野ヶ里遺跡の日吉神社址の石棺は息長宿禰王のものと推理しています。体が小さかったので、巨漢だった大国主との対比から神話で少彦名命とされた、国造りのパートナーです。日吉神社の祭神のオオヤマクイは大国主の分身ですよ。台与は記紀で神功皇后とされ、大国主は武内宿禰とされています。神功皇后の行動の軌跡が残されていますので、ほとんど台与のものだと思います。勿論三韓征伐や東征は藤原不比等の作り話ですが(*´Д`)仲哀天皇は住吉大神の神託を信じなかったために突然死んだとありますが、仲哀天皇のモデルは狗奴国の実力者で尾張王乎止与命と推理しました。倭国征討軍の大将だったのですが、到着すると難升米が逃亡し、無傷で倭国を手に入れたので狗奴国を裏切り倭王に立ちました。しかし副将だった大国主久々遅彦らが反発して、卑弥呼の弟赤坂比古(日触使主)が大国主側について、乎止与命を鳥栖まで追い詰めて討ったと推理しました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られました。まだ、先がありますが、続きは刮目天の古代史をご参照ください( ^)o(^ )
@@katumoku10 私も邪馬台国を周防灘に面したあたりに考えているので、比売大神はまさに卑弥呼に思えます。邪馬台国と八幡信仰の関係。後世に混ざったのだとは思うのですが、私自身はまだ答えができあがっていません。いろいろ考察していきたいです。
@@takedaharuki さん そうでしたか。うれしいです。宇佐神宮は不比等とその子孫が力を入れて隠ぺいした神社です。デタラメな伝承をいくつも作っているので分かりますよ(^_-)-☆よろしければ、「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!」をご参照ください。疑問点などお寄せください。よろしくお願いいたします( ^)o(^ )
こうやって共通の土台を作っておけば、勝手な論走でなく実のある論争も期待できそうですね。6番目の距離については、末盧国まで一万余里、女王国まで一万二千余里で、距離も九州内でほぼ決まり。隋の裴世清が難波から飛鳥まで上るのに一月半かかったことを考えれば、使節の陸行一月を単純に距離換算するのは不適切と思います。
おっしゃる通り、共通の土台を作れば、畿内説や九州説の垣根を越えて、建設的な意見交換ができるような気がします。距離と所要日数の関係についても同感です。西域伝などを見ても、日数記事が単純に距離に置き換えらえない場合があります。
素晴らしい。文献と考古学を両輪にして考えるべきだよなぁ。だから吉野ヶ里遺跡であれだけ盛り上がった訳で。文献の解釈だけじゃぁ、江戸時代となんら変わらないものね。人各々に解釈の仕方があるから、色々な意見があって然るべきだけど、文献に於いてはトンデモ解釈が多いのは事実ですなぁ。古代中国人ではない日本人だから仕方が無いけれどね。まぁ、トンデモ論も大好きなんですがね。
みんなトンデモ論が大好きなのも分かる気がします。吉野ヶ里の石棺を開けたら、異星人が眠っていて、突如、吉野ヶ里遺跡が地面に飲み込まれてUFOが出現するという展開、嫌いではないです。でも、トンデモ説が楽しめるのも、きっと文献や考古学での研究成果のお陰なんでしょうね。
YOさんこんにちは!おっしゃる通りです。一つの事象(考古学発見など)にいくつもの解釈ができますが、対立する解釈の中では、多分正解は一つだけです。じゃあ、その正解を見つけるにはどうするかですが、それは仮説を立てて、そう言う事象群をその仮説で統一的に解釈できると、その解釈は正解ということになりそうです。だからそういう発想なしに、ある事象の解釈に固執するのはバカげていますね。ある時代を俯瞰して事象群を並べて統一的な解釈ができるとその仮説は有望だということですよね(#^.^#)物事を科学的に考える一つの手法ですので、古代史に適用しました。よろしければ「【刮目天の古代史」古代史を推理する」に疑問点など、いろいろとご意見をください!よろしくお願いします。(#^.^#)
邪馬台国の場所ですが、記紀には天皇家の祖であるアマテラスの生まれた場所は筑紫の日向の小戸の阿波岐原とあり、ここで筑紫の日向は九州であり、橘は福岡県八女市に立花町がありますからアマテラスは八女市立花町あたりで生まれた可能性があります。また八女市は旧山門郡で邪馬台国の最有力候補地ですから、アマテラスは邪馬台国で生まれた事になりますから邪馬台国の卑弥呼ではないでしょうか。また八女市には八女津媛神社があり、創建は719年で日本書紀の完成するちょうど1年前ですから八女津媛神社は日本書紀の完成記念に天皇家の祖であるアマテラス=卑弥呼を邪馬台国の故地の八女市に祀っているのではないでしょうか。
山門説は確かに有名です。八女と山門は隣り合わせだから、八女津媛も気になるところです。
お疲れ様です、魏志倭人伝って、ここまでたくさんの人がこだわるのは、文章自体が読み物として魅力があるからなんだろうなぁと思います。言っている事が論理的であることより嘘や矛盾を含んでいても言い方が上手な男性の方がモテるのとよく似ています。笑 考古学者でも文献と擦り合わせること自体邪道と考える人たちの方が以前は主流だったと思いますので、邪馬台国が纏向だと発言している考古学者さんたちはよりメディア向けというかリップサービスも少なからず含まれていると思います。考古学者はあくまでも出土品などの分類や編年の専門家であり邪馬台国の専門家では無いということも忘れてはいけないと思います。
魏志倭人伝に面白いさは情報量の多さにもあると思います。曖昧な部分も多いのですが、膨大な固有名詞、動植物、習慣、歴史、よく2000字に詰め込んだものだと驚きです。文献と考古学の関係について、まさにおっしゃる通りだと思います。考古学者は邪馬台国論争にとらわれない考古学的な一次資料を提供すべきであって、考古学的な見解が邪馬台国論争に毒されてはならないと思います。
違います! と言えるハルキーさんの壮大な妄想と微細な考察を繋げる配信が面白いです。
ありがとうございます。誰もが知っている事柄で、かつ、いざ考えてみると本当に正しいのかなと思えるようなものをピックアップしてみました。こういう基本的な部分の整理こそが、邪馬台国論争を前進させるような気がします。しかし、後から自分の動画を見てみると、きっぱり「違います!」とか、よくぞ抜け抜けと言っているなぁと思いつつ、そのノリが面白いです。
昨日のNスペの内容取り上げてほしいです
石蓋の線刻については一度動画にしたいです。次回は吉野ヶ里の石棺に絡めて、赤色顔料がテーマなので、若干、Nスペの内容も盛り込んでみます。星図については面白いと思いつつ、寺沢薫の弥生時代の副葬品についての見解は認識が少し違っているような気がしました。
@@takedaharuki クロ現でした、失礼しました。星図説はめちゃめちゃおもしろかったです!
いつも楽しく視聴させて頂いています。阿波説の動画を見る機会がありましたら。ハルキーさんにとっては「アホですか」になりますでしょうか?
ありがとうございます。阿波説の動画見てみたいと思います。私にとってはどの説もそれほど気高いものではなく「アホですか」みたいなところがあります。でも、同じアホなら、見て楽しんで自分の知識にして成長したいです。
ご返信ありがとうございます。もしネタにして頂けたら嬉しいです。
NHK7/4録画したが天文学者が出席してて興味わいた 冬の満月が北東方向から空高くあがる理由考えて検索して理解できたのは収穫でした12連発納得
ありがとうございます。方位が季節の影響を受けるということは地軸の傾きが影響しているのかな。知識を一つまた一つと積み重ねていく。そういう点でも歴史研究というのは楽しいです。
@@takedaharuki 本格的ポールシフトが起こる前に邪馬台国問題は解決したいね多少強引でも 10年前と気候はかわっているんだし 降水帯 黄砂とか温暖化
@@高橋邦雄-z2u そうですね。生きている間にいくつかの謎を解明したいです
@@takedaharuki さん地球には、赤道と黄道(太陽が通る道)と白道(月が通る道)があります。地球の公転面に対して地軸は23.4度傾いているため、赤道と黄道は一致しません。また、月の公転面は黄道面に対して5度傾いています。日食や月食が新月や満月のたびに起きるわけではないのは、こういう理由です。さて、中国ではすでに農業がおこなわれています。種まきや収穫の時期を正確に決めないといけないので、星を読むことは普通に行われてて北極星は時刻・季節に寄らずほぼ一定ということなどの知識があったはず。であれば、北極星から考えた東と、月の出から見た東(と思う方向)は、多少ズレるということも知っていたと思います。
いつも辛口の動画を楽しんでおります。「年已長大」は何時の時点でのことを言っているのかが気になります。文章の流れから考えると卑弥呼が共立された時点のことだと思います。その時には成人に達していたということでしょうか。卑弥呼の時代において成人が何歳かわかりませんが、2世紀末に共立されたとすると248年に亡くなったときは相当年寄りだったことになります
そこのところ私も気になっています。共立の時であれば、当時の成人だから14歳以上、魏に使者を派遣した頃であれば、言わずもがな成人。この文章は結婚していないということとセットの文章なのですが、魏の使者はどちらのことを記したかったのか気になるところです。こういった記述は魏志倭人伝や後漢書などで並びも変わり、悩ましいところです。
@@takedaharuki 魏志倭人伝を見直してみましたが、続く文章に「有男弟佐治國」とあるので、弟が国を治めるのを助けられる年齢(二十歳以上だとしたら卑弥呼はもっと年上)だったようです。一連の文章のソースは倭国の難升米等から聞いた話の報告書だったのでしょうか。あるいは正始元年(240年)に梯儁等が倭国に来たときの報告書が元になっていたのかもしれません。正始八年(247年)に張政等が倭国に来たときには卑弥呼はすでに亡くなっていたようですから。
@@rgbcmyk39 さん 弟の件、同感です。卑弥呼は女王とされたときは二十代後半かな?男弟とされた政治を行っていた本当の倭国王が、正始八年(247年)少帝芳の詔勅と黄憧が渡された伊都国男王だと分かりました。卑弥呼よりもすこしだけ年下だったと思います。景初三年(239年)六月帯方郡に派遣された大夫難升米です。伊都国という、魏志倭人伝に登場する倭国の国名としては特異な、深い意味のあるものなので、検討していくと漢字を読み書きできる教養人の難升米が倭の回土(ウィト)国王師升の一族の頭(かしら)という意味だったことが分かりました。そして、行程記事がある政治的な目的で難升米によってすべて漢字で書かれ、帯方郡太守劉夏の報告書に残されたということも分かりました。邪馬台国への行程が政治的な理由で書かれているので、どんなに正しく行程記事を解釈しようとも、これだけでは正解にはたどり着けないのです。ですから、二世紀末(弥生後期後半)の鉄の交易ルートと鉄鏃・銅鏃の出土状況などを調べて、倭国大乱の痕跡も発見し、卑弥呼がどういう人物なのかも分かりました!詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(#^.^#)
@@katumoku10 さん 私も伊都国が魏志倭人伝を読み解くときのキーになると思います。「世々王がありみな女王国に属している」とか「女王国より北に一大率を置いて...常に伊都国で治めている」などの記述、平原遺跡の威信財など伊都国は当時とても重要な国だったようですね。倭国大乱が180年前後だとして、それよりも前の70~80年間は男子を王としていたとあるので、ちょうど倭国王帥升が後漢に朝貢した107年にピッタリです。ご紹介いただいた「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」を拝見します。
@@rgbcmyk39 続く文章に「有男弟佐治國」。うっかり見落としていました。なるほどです。私にとっては目から鱗の発見です。ありがとうございます。
なるほど、この展開があったか!という感じで楽しく拝見しました。今度ライブの時にこの構造でしゃべってみたいと思いますそれにしても 途中何度か大笑いしました!!(笑)
邪馬台国論争の結論ではなく、手法などについてもいろいろ思うところがあったりします。自身を見つめなおす意味でも、それらを動画にしてみました。そうそう。ライブありがとうございました。楽しかったです。リアルタイムであれだけいつもどおり話せる古荘さんを尊敬します。講演会の方は都合がついたら見に行きたいと思います。
なるほどですね。自己確認のため!ライブ、全く自己主張的な(笑)コメントがなく平和裏に終わりました(笑)バルキーさんがチャット登場してくれるとハクガ付き、みなさんも喜んでましたね
@@ancientJapanesehistorywithMAP あのライブを楽しめたのは、きっと、みんな大人だったからでしょうね。みんな邪馬台国についていろいろと思うところや言いたいことがあるはず。でも、みんな譲り合うようにコメントしてました。そして、古荘さんのなごやかな語りも穏やかな雰囲気を作ってくれました。私自身、殺伐とした論争よりも、こういったまったりとした雰囲気が大好きです。
@@takedaharuki 恐縮ですこれからも励んで行きます
古代日本史についてピンポイント的な知識しか無い私から見て、分かる範囲内では「ほぼ同意」です。知らない事は多々あります。例えば、そもそも「考古学」って何?今どういうジャンルまでを含んでるの? とか。(高校時代「郷土研究部」でしたが、当時の考古学って「文学部」だと知り驚愕!一応理系だったので別の進路にしたのです。)「弥生時代」と「古墳時代」とか、なんで西暦で無く「時代」で説明するの? とか。(だって「時代の定義」は研究が進んで発見が有ると、年代が変わりますよね?)定年過ぎて、「学び直し」をしてるのですが、理系も文系も「定義」が全く様変わりしていて、何が何だか?(浦島太郎状態ですよ。しかも、情報にウソが多い事!)
ありがとうございます。実は私も考古学が文学部と知ったのは大学に入ってからでした。大人になって考古学を改めて学んでみると、定義の変更が多い上に、今の考古学者の主張が必ずしも正しくなさそうだということに気づかされます。楽しむ側の我々も、たとえ専門でなくても、長く生きてきた経験を活かし、一つ一つ、それは本当なのだろうかと考えることが大事なんでしょうね。
年齢が長大。と中国とは違う暦(習慣)云々は連動していて春分の日(春正月)と、秋分の日(秋正月)の今の半年が一歳。結果、一年二歳暦なので10歳の少年→二十歳。30歳の大人→六十歳40歳の中年→八十歳50歳の壮年→1百歳60歳のお疲れ様は120歳。70歳の人は140歳と普通に言うから、中国人はびっくりした。因みに、↑の一年二歳暦の名残が年末と6月末日の大祓行事では?
暦についてはいろいろと難しいのですが、盆と正月も似ている気がします。
大祓行事は1年2歳暦の名残であるとすれば、倭人が1年2歳暦を使ってたとして、記載の人寿を説明可能です。ですが、ここは「其人壽考或百年或八九十年」とあり「その人寿は100年あるいは80~90年と『考えられる』」と断定ではなく推定(伝聞ではない)で書かれています。魏の使者が倭人の老人を見て年齢を推測したんだと思います。<インド>老婆の心 ── 高橋邦典フォト・ジャーナル で調べてみてください。魏の人間(北方)より倭国の方が日光が強いし、海に入ると歳とって皮膚にダメージが来ます。丹の主成分の硫化水銀は化学的に安定ですが、加熱すると昇華します。水銀蒸気で重金属中毒を起こしていたかも知れません。また大酒飲みは歳とって肝臓を傷める可能性が高いです。特に弥生人には下戸が存在するとあります。中国南部由来とも推測されています。 参照: Wikipedia日本語版 弥生人これらの事より、魏の使者には80~100歳に思えた。ということかも知れません。
@@takedaharuki 春分の日と秋分の日の『春正月』と秋正月には神と呼ばれた特権階級の人々(各地の首長)が土産物(文字通りに土地の産物等)を持参して出雲王国の当代の王さまが座す王宮に参賀。併せて出雲王は国会を召集して国事を議して様々な案件が議決された。議決された案件は今度は国祭主の姫巫女でもある出雲王后(皇后)に附託されて出雲王国の国教、幸の神信仰の神々に奏され、その是非を諮問。結果が吉ならば実行され、凶ならば差し戻しか、破棄された。↑の一連の事を『まつりごと』と称したとか。ある種、現代の我が国の政体(立憲君主議会政治)に比較的近かったのかもしれません。↑の、まつりごと。が終わると一同、今度は王宮前の広場、大庭。に移動して王家主催で王国の大祭が姫巫女の出雲王后の主宰で挙行された。出雲の神々は各人の祖先霊と渾然一体となった大祖霊神でもあってこの大祭は各人の祖霊祭祀の一面があった。ところで、出雲の祭には余興と酒が付き物だった。実は参集した皆はコチラが楽しみにしていたとか。
@@森岩光 二回の正月は私も聞いたことがあります。盆と正月。酒は確かに必須アイテムですね。
ほぼアクションシーンでしたが、まあそれがインディですよね。それはさておきトンデモ話しだしたら突っ込もうかと思ったが、至って真面目な話でした。
アクションシーン。確かに多かったです。最後の聖戦に比べると地味な展開でしたが、私の中でしっくりとインディ・ジョーンズシリーズのラストを堪能できた気がします。高校の頃にテレビで見て興奮し、50を超え、時の流れを感じたドラマでした。
配信ありがとうございます。 観なければいけない身体になったのかな\(^^)/
ありがとうございます。その時の思い付きで動画を配信してしまってますが、こうやってみんなに見てもらい、嬉しい限りです。
つり橋を叩いたら真っ逆さま
そのインディジョーンズなみの勇気もありかも。川にワニがいなければ。(^^;
こんにちわ( ・ิω・ิ)今回もスッキリする動画ありがとうございます。畿内説派の纒向遺跡には城柵以前に環濠が無いんですが、平和になり埋めたんですかね??(唐古・鍵遺跡にはありますが)そういった説明は皆無なので説明いただきたいなと思ってます(¯―¯٥)
ありがとうございます。おっしゃるとおり纒向遺跡には環濠がないです。この点が魏志倭人伝とは齟齬します。一方で大溝や古墳といった土木工事を行っているので、決して技術や権力がなかったわけでもないようです。古墳時代は、首都で戦いが繰り広げられるような時代ではなかったのかも知れませんね。中世の城も最初は実用的だけど、最後の方の天守も備えた立派な城が全然実戦に使われないケースも多いようですし。
普通に考えれば吉野ケ里、平塚川添、方保田東原、小迫辻原遺跡といった環濠を備えた遺跡が多い九州が有力ですよね(¯―¯٥)
@@隆一西 城柵の記述などから、私はそんなイメージです。これを踏まえた上での畿内説の主張もありだとは思うのですが、「魏志倭人伝は信用できない」という主張だけはなかなか納得できないものがあります。
@@takedaharuki さん おっしゃるとおりです。内容的に明らかにおかしいところがありますが、編纂者の目的や編纂者が参照した文献の目的を推理すると、どこが潤色や改ざんなのかを見極められますよ。すべてを無視するのも間違いですね。詳しくは「刮目天の古代史 魏志倭人伝の真実?」をご参照ください( ^)o(^ )
ベタですけど、侏儒國こと種子島から北に短里で四千余里に女王国があったと思っているので自分は九州説しかありえませんねw長里でも短里でも畿内から南に四千余里行った所に弥生時代~古墳時代に背の低い人々が住んでいたと証明できる場所が在るなら教えてくれた人に感謝するぐらいに節操有りませんが😂そんなこんなの思考のオマケで種=砂鉄→種子島=砂鉄の島って島名かなんて気づいたんですけどね@気づいてから砂鉄が沢山採れると知りました。宇宙も好きなので種子島にはいつか行ってみたいです。遠絶は「遠」と「絶」があるだけで「倭国」という単位ならば九州島内に周辺國も在るって信じてます。
侏儒國と種子島。すっかり忘れてました。そうそう、以前、そっちの方を考えてました。実際、背の低い人骨が見つかっていたりと興味深い情報もあります。あの12の見解は私の主観に過ぎないから、幾つかは意見が分かれるところのはず。考えが全く同じ人がいないというのがこの世界の面白さです。確かに遠い近いは相対的なものではあります。
侏儒国は「女王国から」でも「邪馬壱国」でもなく「去女王四千餘里」女王を去ることです。女王は侏儒国の北4000里にいたと読めます。女王の居場所を北部九州にするなら、短里4000里320kmくらいで種子島です。GoogleMapで確認できます。魏の当時、1尺は24cmでした。種子島の広田遺跡から出土した人骨は、成人男性平均で154cm人長三四尺だと75~100cm弱ですので、合わない。これは百貫デブが本当に体重375kgの人を言うわけではないのと同じく、低身長の比喩だと思っています。ただ、調べたけどそういう比喩があったという情報は見つかりませんでした。
本編の解説は全くもって納得ですね!「簡単な嘘がまかり通っている」には思わずTVの前ににじり寄りました。(^-^)その嘘をゴリ押しする方が主流派だなんて・・”学会”は既得権益(白い巨塔の世界)にしがみ付く守旧派に握られている?笑笑
普段、薄々と思っていたことを今回動画にしてみました。30年くらい古代史を趣味にしていると、実は基本的な誤りについての解説を十数年以上も前にすでに聞いていたりもします。やがてみんなそのことに気づくのですが、今から邪馬台国論争を楽しむ人のために、王道は無理でも近道を提供できればとも思い、動画にしてみました。考古学会は権威がある分、確かにごり押しの傾向を感じます。そして急先鋒の人ほど、そのことに気づいていない感じです。
@@takedaharuki さん おっしゃるとおりです。権威は科学的探究を邪魔するものです。自由な発想を妨げますから!思い込みを無くして自分自身の頭で論理的に考えると答えが出てきますよね(^_-)-☆古代史問題の科学的な解決手法を提案していますので、「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をお暇の時にどうぞ!失礼しました(#^.^#)
お!師匠久々の辛口ドライ動画ありがとうございました。ベラの鞭と思いましたが、ガリアンソードもありかな?中国語の文献ですから日本語で解釈しても意味ないのでは?多くの文字は、略字化されていますけど、徑は略字の径を使ってないのでは?なら中国語の道端の意味では?街道沿いに墓を作った。?略字の径なら半径や直径と略字変換した人がそう解釈したんだとおもうんですけど。中国語では、南東が方位で東南は海岸の意味で使われる事ありますよ。時系列の繰り返し記述ですから長大の意味の使い方ちがうのでは?大も父親の意味で使う事もあるので、卑彌呼以死大作冢徑百餘步は、卑弥呼の父親が死んだので道端に見えるように墓を作ったとも中国語の意味にもなりますし。。。。南至邪馬壹國の南至が方位の南と解釈されているのは、理解できますが当時は、南至は冬至。到着した季節だったのでは?景初二年六月からの其年十二月詔書報倭女王・洛阳から半年以内の場所に卑弥呼はいてますが、出迎えにいったのでは?正始元年の時系列には到着した月がありませんから景初2年12月20日頃南至=冬至の部分にあったのでは???もっとも、日本を南に長い島と誤解されてるのは、邪馬台国・投馬国の馬が南のいみだからかも???倭人の方位は干支じゃ?蛇馬・蛇と馬の方位の通訳からのパッチワークミスなら邪馬壹国は帯方から5時~6時の方向にあるのかも?しれませんけど(笑)豊前と筑前付近に爰及東夷使譯時通記述隨事豈常也哉。語り部は滞在していたのでは???
ついつい邪馬台国ネタやってしまいました。使譯(通訳)については当たり前のようにいたと思います。
@@takedaharuki 師匠が想定してる集団墓。東南を海岸線と中国語の意味を使うと豊前あたりかと?語り部や通訳は、リアルワールドの人だから、必ず正解になる漢字の意味があるはず?ただ、中国語漢字も日本語漢字も莫大な数の意味があるし、原字からの略字の解釈もあるので、、、壹と壱は、臺には派生しません。臺は、怡や台に派生していきます。壹や壱は、台にはならないので、台の意味の解釈は、当時の写本した人達の逃げ道。意味の中央官庁にしておけば、日本の統治者の意味で逃げれますから。後漢や魏が、地方自治体と交流してたのを嫌ったのか?朝貢国『意味は辞書参照願います』主従関係ありませんから、貿易相手国として挨拶。親魏倭王も、今で言う親展の意味ぐらい?本人確認印ですよね。女王国の共立国と通信していたのか?共立国30を1国と考え29の吉備や大和や美濃や近江と通信していたのか?師匠は、後者なんでしょうね(笑)
配信ご苦労様です!!のったりとしたBGM、それに似合わぬ鋭い考察有り難うございます!!とても良く理解できました。多くの学者が人生をかけて調べ上げてきたことですが、『交易の始まりに(帯方郡の)使者が九州北部に上陸していた』ぐらいしか決定的なことは解っていなくて。それ以外は『誰の主張も正しい』と言いきれない。ことによると、邪馬台国や卑弥呼の存在すら有ったことの確証が無い。私は最近邪馬台国と卑弥呼の謎を追い始めましたが、稚拙な私の知識でも十分楽しめる分野かなと思い取り組んでいます。このチャンネルも大いに参考にさせて頂きますね。キダイダー面白いし ・・・ ^-^これからもよろしくお願いします!!ああっ!! 神戸から発信されているのですね~ 奇遇です!!
誰の主張も正しいとは言い切れない。おっしゃるとおりです。また、この問題、学者さんの聖域かと言えば、そうでもない気がします。学者でないと分からない専門的な部分も多いのですが、一方で専門家以外でも考えられる常識的な理解の部分もあります。そこが楽しいです。これからもよろしくお願いします。生まれも育ちも神戸。神戸っ子です。
いつも楽しく拝見しています。邪馬台国の時代だけを調べている人間に嘘臭い人が多いように感じます(失礼!)弥生中期から古墳中期までの流れの中で決まる気がして勉強中です。いつか新羅本紀と邪馬台国+ヤマトの関わりを解説して頂きたいです。
ありがとうございます。確かに邪馬台国論争だけの人は結構厄介だったりもします。弥生時代と古墳時代の過渡期とか私も大好きです。楽浪土器、陶質土器などをもっと勉強し、三国史記の構成を紐解いて、いつか動画にしたいと思います。誰か原三国史記的な研究してないかなぁ。
溜飲が下がる思いがします。
ありがとうございます。邪馬台国論争で多くの人が勘違いしているだろうと私が考えていることを述べてみました。こういう地味なテーマも意外と身近な部分なので結構面白いかも。
私は邪馬台国論争はすでに九州説で決定していると思います(私は北部九州説です)。なぜなら邪馬台国を知るには、現在では魏志倭人伝の記述に頼るしかないからです。江戸時代と違い、現代は情報社会です。倭人伝に書かれている邪馬台国の様子を、考古学的に発見し具体的な根拠として挙げているのは九州のみです。邪馬台国ソックリの楼観を含む環濠集落、さらに当時は絹の使用も書かれていますが、これも長崎・佐賀・福岡県のみの発見です。未だに他の地区での発見はありません。矢じりなどの鉄器の使用も書かれていますが、これも福岡県で700以上の発見に対し奈良県はわずか4個と圧倒しています。これらのデータにはTV番組でも畿内説学者からは異論も出ず、何を具体的根拠として未だに粘っているのか伺いたいです。畿内説の最後の望みだった纏向遺跡も、私が見聞きしただけでも3人の発掘学者がここは邪馬台国では無いと言っています。もう何年発掘していますか? 別方面からの考え方として、NHKの番組で取り上げられていましたが、魏の使者は何を目的に邪馬台国を訪れたかに注目していました。当時の魏は周りの国と緊張状態にあり、敵対国の背後から牽制するため、軍事同盟を結ぶのが目的と言われています。ここまで書くと分かりますが、イザという時に全く間に合わない遠方の畿内などに用はありません。海を渡ってすぐ鉄器や絹を使う強国があるのに、はるか遠くで鉄器もほとんどない所に行く暇はないでしょう。これを最初に聞いたときは、なるほどと感心しました。これに対する反論は未だ聞いたことがありません。
私も同じ見解です。現在の邪馬台国論争において「考古学的」という言葉が「考古学的に魏志倭人伝に齟齬しない」と「考古学的に古墳時代の権力が弥生時代の権力より大きい」の2種類あるように思います。私自身も前者で考えており、結果、九州説の立場です。
とりあえず、倭王卑弥呼がいたところか、女王がいる邪馬台国か、どこを探すのか皆さんスタートがあいまいです。原文には邪馬台国に卑弥呼がいる、とは一言も書いてなくそれは皆さんの脳内補完にしかすぎないのでしょうか。
「南至邪馬壹國。女王之所都」の一文があるので、邪馬台国に卑弥呼がいると予想するのは、まぁまぁ一理あるとは思います。ただ、おっしゃる通り、邪馬台国論争のスタート(出発点)がどこかにあるべきか、考えることも重要だと思います。
おっしゃる通りですが、魏志倭人伝の元ネタに卑弥呼と書いた人物も特定しました。邪馬台国というのはヤマコクの台(女王)が治める国という意味です。本当は女王ではなく姫巫女(ひめご)なのですが、政治的な理由から洛陽から万七千里に女王の都があったとしたかったということなのです。ですからいくら行程記事だけ正しく解釈しようとしても正解にはたどり着けなかったのです。なので当時の考古学と民俗学の成果から推理しました。よろしければ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(#^.^#)
@@takedaharuki 一理あると思われる読み方で論理を組み立て、議論を重ねてここまで答えが出ないということは、常識と思われていることが実は思い込みから始まっている不確かなものだったと。そこに気づけるかが今の場所に留まるか、一つ上に行けるかの境い目です。
@@katumoku10 「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院にあった!」。少しだけ斜め読みしてみました。詳細でびっくりです。壮大なため、今の私がすぐに評価できるものではありませんが、考古学的な点を踏まえての考察は説得力があるように思いました。
@@kenn8438 おっしゃること、そうかも知れません。学問に限らずですが、思い込みというのは視野を狭くし、本質を見落とすことになるため、禁物だと私も思います。ただ、視野広くあることは、なかなか難しいところではあります。日々、努力を続けます。
お待ちしておりました‼︎ズサ━━━━⊂(><。⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!
ありがとうございます。§(・・)§
いろいろと勉強になる考察をありがとうございます。ひとつだけ教えて欲しいのですが、径は確かに「さしわたし」と説明されています。しかし、塚(墓)の話なので、おっしゃるとおり方形墓なら方〇歩とか表現されるかと思います。卑弥呼の墓の説明の前段に、倭人は土を封じて(盛り上げて)塚を造るとありますので、径は直径と読むのが妥当だと思います。そして、卑弥呼の塚が直径百余歩(約150m)の円墳(古墳時代初頭とするなら)と考えるのが妥当だと思います。この規模の巨大円墳はざらにあるものではなく、先日話題になった奈良市富雄丸山古墳は4世紀後半に作られたもので、小さな造り出しがあるものの直径110mの円墳です。超豪華な副葬品から考えても大王に匹敵するものです。被葬者は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と推定しています。この人物は応神天皇の皇太子とされ、母は和邇氏の祖日触使主の女です。そして、日本最大の円墳と言われてましたが、これよりも巨大な円墳を三つ発見しており、いずれも和邇氏のものです。その中の最大の円墳が宇佐市安心院町「三柱山古墳」で直径約150mなのです。様々な状況から卑弥呼のものであろうと考えています。邪馬台国が七万余戸とあるので、多くの史学者や考古学者は卑弥呼も大規模集落に居たと考えていますが、七万余戸は当時、最大の都会だった比恵・那珂遺跡群のあった奴国で二万余戸です。最盛期には吉野ヶ里遺跡の4倍の広さでした。そのような奴国の3.5倍の戸数の超巨大集落は現在まで発見されてはいませんから、政治的な理由で倭国を大国に見せたいために書かれたものだと考えるのが妥当です。そして、当時は卑弥呼が女王に立って倭国大乱が終わったと思われていますが、狗奴国が敵対勢力としてあるので、多くの一般人が出入りするような大規模集落は危険です。女王は多くの民衆が居住する集落から少し離れた要害堅固な城砦に厳重に兵士に護られて居たと考えるのが自然だと思います。三柱山古墳のあった宮ノ原遺跡にある三女神社が卑弥呼の宮室と考えられ、その西側に幅2.5m深さ1mのV字溝があり城柵があったと考えられます。また南側は10m程度の崖になっており、その下を川が流れています。内部には土塁跡も見られます。戦乱期の女王の居城に相応しい山城になっています。この遺跡には三柱山古墳よりも一回り小さな円墳「奥城古墳」があり、卑弥呼の父の赤坂比古(和邇氏の祖、日触使主の父と推定)が被葬者と考えています。詳しい内容は「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」にありますので、是非専門的なご意見を頂戴したいと思います。突然で恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。
ご意見ありがとうございます。私自身は冢が墳とイコールとは限らず、径は直径に限らないと考えています。そして、その足枷によって集団墓、弥生墳丘墓、前方後円墳の可能性が否定され、世の中が前方後円墳の後円部のみといった考えに限定されてしまわないかと懸念しています。三柱山古墳についてはよく知らないので答えようがないのですが、古墳なら弥生時代ではないということになります。古墳なら版築を行って真円のものも存在すると思いますが、一方で古墳時代だと150メートルの規模は巨大前方後円墳に比すればさほど大きくはないです。また、弥生時代なら150メートルは随一の大きさとなりますが、版築・真円のはすがなく、その名のとおり古墳のはずもないです。手元に資料がないので、このあたりの位置づけがよく分からないです。宮ノ原遺跡の城柵。幅2.5m深さ1mのV字溝なら、卑弥呼の居する所のイメージに近いと私も思います。「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」については、機会があったら読んでみたいと思います。
@@takedaharuki さん 早速ご回答有難うございます。なるほど、集団墓まで視野に入れたら、限りなく範囲が広がりますから、残念ながら墓は決め手にはなりませんね(*´Д`)でも、墓が決め手にならなければ、外のものは、例えば金印などは、人が簡単に持ち運べますし、たとえ女性の墓にあったとしても、決め手にはならないと思いますよ。つまり、何をもって邪馬台国とするかは皆目わからないということになりませんか?わたしも、纏向遺跡に代表される畿内説は、魏志倭人伝の記述にほとんど合致しませんので、あり得ないと思います。倭国というのは少なくとも3世紀半ばまでは北部九州が中心と思っています。また、多くの皆さんは現存する最古の歴史書が天皇が編纂を命じたので、天皇の歴史書だと思っていますが、全くの思い込みだということが考古学や民俗学の成果から分かってきました。例えば、日本最古の王墓が福岡市吉武高木遺跡にあると分かっていても、被葬者が天御中主、天村雲尊そして天八重雲尊の墓だと気づけません。三種の神器が出ているにもかかわらずですから強い思い込みが真相解明を邪魔しているようです。よろしければ、是非、拙ブログを読んでいただけると、気づかれることが出てくるかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。お邪魔しました(^^;)
年齢については台与の様にはっきり13と明記されてる例もありますね。畿内説の立場ですが箸墓の重要な点を忘れていますよ、あの規模の墓を連続して三世紀末以降に多く出来る場所=人員を動員出来る七万戸の証拠となります。それに九州説は相変わらず戸数を無視されているのが気になりますね。距離と戸数は同時に考察しないとダメです。また卑弥呼の鬼道=神仙思想の影響下ではないのでしょか?畿内説ならこれは神獣鏡の多量の出土から簡単に説明が出来ます。これ等について何時まで無視されるのですかね?これ等から文献史学でも九州説は全く矛盾だらけだと思いますよ。
纏向説の方は箸墓が卑弥呼の墓としていますが、卑弥呼は正始八年(247年)に帯方郡に使者を派遣し、狗奴国との戦争を報告すると、直ぐに魏使張政が詔勅と黄憧を持って倭国に到着し、そのときにはすでに卑弥呼は死んでいたとあり、墓の説明が書かれていますから、卑弥呼の墓は急造したものだと分かります。箸墓のような立派な前方後円墳は、おっしゃるとおり大人数が造営に参加し、いくら夜は神が造ったとしても、短期間にできるものではありません。そして、卑弥呼の死後にあらためて男王が立ち、不服な勢力との内戦が勃発し、千人くらいが死んでいます。そんな状況で箸墓を造営する力のある人物が居たとしたら、内戦になるわけないと思いませんか?おっしゃるとおり箸墓は三世紀末から四世紀築造と考えられますので、247年の卑弥呼の死と箸墓の築造年代が合致しません。そして、箸墓はヤマト王権が成立し、多くの民を動員できる時代になってからと考えると築造は四世紀初頭というのが妥当でしょう。そう考えると、箸墓は卑弥呼のものである可能性はありません。その他の倭国についての記述は纏向遺跡とほとんど合致していませんから、邪馬台国でないことは明確なのです。ですがヤマト王権発祥の地であることは事実ですので、当時の日本の中で中心的な存在だったと分かります。それはこの時代に、列島各地からの外来土器がこれほど出土した遺跡もありませんし、建物も掘立柱構造の、いわゆる高貴な身分の人間の住まいが多数あり、大型の祭祀用建物や祭祀に使った大量の桃の種などから考えると纏向遺跡の首長が日本を建国した求心力のある人物と言えそうです。そして面白いことに九州の土器がほとんど発見されていないのです。重要な纏向での祭祀に倭国の人間が参加していませんから、当時倭国と対立していた狗奴国と考えるのがよさそうです。北部九州の倭国には畿内や東海、山陰などの外来土器が多数見つかっていますから、纏向に集まった勢力が倭国を滅ぼして日本を建国したと考える方が自然です。いかがでしょうか?(#^.^#)
当時の奈良盆地に七万戸は厳しいかなと予想します。逆に言えば、当時の奈良盆地の七万戸が証明できなければ畿内説は成立しないという理屈になるため、さすがに畿内説の人たちでもそういったことは言っていないと思います。また、神獣鏡が出たら邪馬台国といった理屈もよく分からないです。鬼道を行ったからといって神獣鏡を作るとは限らないため、三段論法の一段目でこけていると思います。で、私の言わんとしていることは、こういった個人の思い込みレベルを脱却し、それぞれが納得できる確かな共通認識を根拠にしなければ、まともな議論は始まらないということです。
@@takedaharuki 勿論私も七万戸という国が奈良盆地に存在出来るとは思わないです。巻向遺跡=邪馬台国とされる畿内説の方にも私は批判しています。魏志韓伝における韓半島の国々、馬韓、辰、高句麗の数字を見るとおのおの十万、四、五万、三万戸ですからね。少なくとも邪馬台国の七万戸が九州に収まるような場所はとても考えられないと思います。魏志倭人伝における邪馬台国の情報も改めて明確にしておきます。まず投馬国より遠方で五万戸よりも多い、七万戸の大国だという事。辰よりも大きく馬韓より少し小さい位の国だと魏では捉えられていた点。また卑弥呼が都としていた国で鬼道の影響下が残っている場所。邪馬台国の情報なんてこれだけですからね。後の魏志倭人伝の記述は倭人の国の情報にしか過ぎないです。そうなると三世紀以降に畿内中心に出土が見られる画文帯神獣鏡、また三世紀半ば以降大量に出土が確認される三角縁神獣鏡は、時期的にも卑弥呼の用いた鬼道の証と捉えるのは自然だと思いますね。三角縁神獣鏡を国産として卑弥呼の鏡ではない、と大騒ぎされていたのが九州説の方々の大きな間違いなんですよ。三国志において鬼道の説明してある文章、初期道教と明記されてるのは無視できないですからね。神獣鏡の大量出土=神仙思想の影響下にある場所です、これは北部九州にも確認されてますよね?対して熊本や大分宮崎等は殆んど出土しない、卑弥呼の鬼道の影響下が無かったエリアと考えればいいと思います。
@@katumoku10 私の考察とはかなり異なりますね。北部九州はやはり半島、大陸への重要拠点なのは明白で、伊都とは出雲方面、つまり本州以東や瀬戸内海の水運勢力が設けた国だと思います。箸墓始め大規模な古墳を造る労働力に九州辺りから動員する事はないでしょう、戦乱の地である北部九州に投入されるでしょ?倭国最大の国である畿内にある邪馬台国だから、大規模古墳を造る労働力を周辺から集める事が出来る、単純な話だと思います。
@@トミヤマ-c6r 人口についてはどの説でも過大となるため、少なくとも何かしらの解釈をすることになります。その解釈がすべての人に納得できるものであれば、議論は収束に向かいますが、方位や距離を無視して良いなどの自由がまかり通る邪馬台国論争の世界なので、おそらく水掛け論に終わると思います。また、神獣鏡に重きを置かれていますが、それは諸刃の剣に思えます。物事は一点から見ればすごく完璧なものに見えますが、別の方向から見ればそれが弱点になることもあります。たとえば、三角縁神獣鏡の神獣配置は中国の神仙思想を逸脱しています。もし、おっしゃるとおり鬼道と原始道教がイコールなら、逸脱した神仙配置となっている銅鏡を配布する畿内は神仙思想を知らないから鬼道の卑弥呼とは関係ないといった主張もできてしまいます。私からすればどちらも極論です。私が懸念するのは、解釈の余地のあるものが根拠の場合、きっと水掛け論に終わってしまうだろうといったあたりです。共通認識にできる根拠を揃えていけば。邪馬台国論争は収束に向かうはずですが、みんな手を抜きすぎているような気がします。証明って本来結構難しいものです。
コメントありがとうございます。今は誇大妄想探訪の倭人伝を読み返したらあの国が通説とは違う場所になってしまったを5回は見たところです 糸島は伊都国ではない やまいちこく
壱国 壱与であり臺与ではない センチメンタルジャーニー松本伊代も最近懐かしく聞いたけど柔らか頭で考えないと 脱字失礼いたしました
中国史書の当初の形を考えるのは、なかなか難しいところがあります。
@@takedaharuki 後漢書 魏略 魏志韓伝 の和訳は読めますよ原文 和訳と解説 音読もしてくれる 中検4級基礎的な資格もある
畿内説の根拠は邪馬台≒大和、故に奈良ってだけだし
畿内説のそもそもの根拠はそこなんだろうなぁと私も思います。九州説は魏志倭人伝の旅程記事に重きを置くから違う結論。それらの仕組みが分かっていたら、邪馬台国論争も所詮は主観の相違に過ぎず、結論ではなく、その主観の相違についての地味な議論だけになるような気もします。
@@takedaharuki さん 三世紀の纏向遺跡の外来土器の調査で北部九州の土器はほとんどありません。魏志倭人伝に伊都国の一大率が女王への貢物や外国への贈り物をチェックすると書かれており、伊都国の人々と交流のない纏向遺跡に女王はいません!それどころか、三世紀初頭の纏向遺跡での最初の前方後円墳石塚古墳やそれ以降の重要な祭祀に北部九州の倭国の人が参加していないのですから、纏向遺跡は倭国と敵対勢力です。魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の南とあるので騙されますが、纏向遺跡にあった狗奴国が倭国を滅ぼしてヤマト王権が成立したと考えるの自然です。なぜなら、奈良盆地で大きな戦乱の痕跡はありませんでしたから。九州の邪馬台国が東遷したということもありません。そして、一方的に北部九州の倭国に、纏向に集まった人々が押し寄せてヤマト王権が成立したと考古学の成果から分かりましたから。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください( ^)o(^ )
普通に考えて、あんなええ加減のデータ調べてどうするの?宜保愛子さんに霊視してもらえば良かったのに!
言葉がええ加減なため、言わんとしていることが理解できません。もう少しちゃんとした日本語でお願いします。
雨降って地かたまる。
邪馬台国論争のあらましが簡潔明瞭でスッキリします。
論争の相違点を無理矢理合わせる必要なしと思ってます。
決定的な物証が出土しない限り並行線です。
仮説おおいに結構とも思ってます。 九州 畿内以外もない話じゃない。阿波説以外は…
ありがとうございます。「仮説おおいに結構」。まさにそのとおりだと思います。
動画をアップしていただきましてありがとうございます。うぷ主さんの肩を持つわけではありませんが、主たる塚と陪塚の存在を確認できる場所が有利かなと思います。
九州の大雨のご心配いただきましてありがとうございます。
ニュースで強い雨と聞いていたから、土砂崩れとか、いろいろ心配するところもありました。奴婢百余人。私もこれがキーのような気もします。ないと言ってしまえば終わりだけど、あると言えば、これほどの特徴はないといった代物。
末盧國は今の玄海町の可能性はもあるような。
諸(浦)→もーろぅーこく→末盧國
呼子や唐津付近なら伊都国との間を舟で移動できるところ、前も見えないほどの草木のなかを進む理由がよく判らない。が、玄海町から伊都国の間は、ある程度内陸を歩く訳は判ります。
その代わり、距離が壱岐から玄海町までと余り変わらなくなりますが。
粗案なので、真に受けないで下さるとありがたいです。
九州説の場合、末盧國あたりで意見が分かれてきますね。
特定の区域に邪馬台国は無く、欧州連合とか合衆国みたいだったら、卑弥呼の墓(ロサンゼルス)とか家(ニューヨーク)とか城(ワシントン)が別々の場所に離れてあったら発見は無理かも🤔
確かにその可能性もゼロではないです。時代的に集落と墓が近いとみんな想定するところですが、卑弥呼の墓は一点ものだから規格外のリスクもあります。実際、首都は邪馬台国では墓は伊都国という説もあったかも。
確かにその可能性もゼロではないです。時代的に集落と墓が近いとみんな想定するところですが、卑弥呼の墓は一点ものだから規格外のリスクもあります。実際、首都は邪馬台国では墓は伊都国という説もあったかも。
魏志倭人伝には「南至邪馬壹國女王之所都、水行十日陸行一月」とあります。
一般には「南にて邪馬壱国に至る。女王が都をおくところ(東亜古代史研究所)」
「・・・女王が都べる(統べる)ところ(Wikipedia)」と読まれています。
私は「南にて邪馬壱国の女王の都となる所(意訳で母国)に至る」じゃないのかと思います。
中国語で都というと、先祖からの墓がある所という意味もあります。
であれば卑弥呼は伊都国にいたけど、お墓は母国かも知れません。
余談です
陳寿さんの母君が亡くなった時、遺言に従って出身地ではなく居住地に埋葬し非難を浴びました。
出身地に埋葬というのは、意外と普通だったかも知れません。
今だって東京都民が「うちの墓は九州にある」なんて珍しくないですし。
余談2
狗邪韓国の「邪」対馬の「馬」壱岐の「壱」をまとめて略称で「邪馬壱国」と言った
とも勘繰ってます。
であれば、魏志に書かれた「今使者が通じるのは30国」の総称かもしれません。
妄想です。豊葦原(葦原の中つ国)之千秋長五百秋之水穂国はいたくさやぎてありなり。此の葦原の我が御子の知らす国と言依さし賜へりし国なり。と言って高木の神と天照大御神が大国主神に国譲りを強要し天孫降臨となる訳ですが、なぜか筑紫の日向に天降ってます。でもこれを先代旧事本紀で補完するともう一つの天孫降臨があって難波の日下(ひのもとのくさか)にニギハヤヒさんが天下っています。つまり時期が同じか否かは分かりませんが本来神話には二つの天孫降臨があったのだと思います。天孫降臨を命令した主体(高天原)が九州にあってそれが邪馬台国と云われる集団であったと思います。ちなみに日向に天降ったニニギさんの集団は日本書紀によると(そししのむらくに)だから豊かな国に行こうと言って畿内ヤマトに東遷します。
自分は日本神話には多くの重層構造があって例えばオオクニヌシとヤチホコの神、オオナモチの神は重複した別人格だと思っています。とくにヤチホコノカミとオオナモチは九州の神様なのではないでしょうか。邪馬台国以前の支配者層を髣髴とさせます。
二つの天孫降臨。実際、記紀ではそういった世界観ということになります。そのあたり、単なる神話ではなく、史実を核としているのではないかと私も考えています。また、神話の重層構造も神話に対するオーソドックスな理解だと思います。
日本人は、現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし完成したのは崩御から34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。日本の建国の史実が都合が悪いので、神話を創作して史実を隠したことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。
日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が日本紀講に当たり突然表に出してきたものです。それまでの正史などに一切記載はありませんし、日本書紀にも参照した痕跡はありません。人長が創作したものなのです。日本書紀に添って書かれていますが、所々違えています。不比等に隠された本当の歴史に導くための暗号書だったことが、空白の四世紀と倭の五王の系譜を調べて分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。
古事記は江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らに人気となりました。明治になって、それまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた記紀神話と全く別物の神話が存在していましたが、神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました(詳細は「アマテラス大神はヘビだった?」「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)。
国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それは本来のものではない全く新しい神話なのです。というか、藤原氏が権力を維持するために捏造した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきますよ。詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
@@katumoku10 ありがとうございます。一つ一つの内容が壮大なので、なかなか読む時間がありませんが、少しづつ読んで、いろいろと学べればと思います。
@@takedaharuki さん 有難うございます。思いつく限り考古学や民俗学などの事実で検証し、途中は推理ですが、妥当な演繹法で推論をしたつもりです。この手法は私が古代史に適用しただけで、発見的な推論法であるアブダクションと呼ばれる仮説構築の手法です。詳しくは【刮目天の古代史】古代史を推理する」にありますので、どうぞご参照ください。人間は間違う動物というのが前提ですから何度でも検証するわけですが、やっていくうちに確信に変わります。ですから、別の方が異論を言っていただくのが真相に迫るやりかたなので、どうぞよろしくお願いいたします(^_-)-☆
@@katumoku10 こちらこそありがとうございます。お互いに刺激しあって成長できればと思います。
3:33「径ってのは直径という意味では無い。差し渡しという意味です」と書かれたが…。
気になってGoogle教授に尋ねたところ、「差し渡し」の意味の1つに「直径」があった…。
確かに「差し渡し」を「真円のものにだけは使ってはいけない」ということはないです。よく理解して欲しいのですが、私の言いたいのは「真円のものにだけ使うとするのが間違っている」ということです。
毎日1時間以上10ヶ月間 邪馬台国解決に情熱を傾け 今日も安本美典先生の 邪馬台国は福岡県にあった畿内説は有り得ないを一時間半講演会視聴して私の伊都国邪馬台国説に変化はないし賛同者が知る限り二人しかいないことにむしろ不思議に感じる 京都大学文学部卒業で内藤湖南さんと同じでびっくりで国立大学文系卒の私で恐縮ですが文学部だけでは解決できないと思った 今日夜19:30より30分邪馬台国を取り上げろ様だがBSで2時間は必要なんじゃないかと思う 中国の学者は九州説を支持してるし魏の国書で地理で南を東に捏造するのはご法度に近い 伊都国の比定から議論してもらいたい 糸島99%確定を疑ってほしい
クローズアップ現代。是非、見たいです。糸島あたりについては非常に興味があります。最近の邪馬台国論争って、そんなあたりを扱わないから少し寂しい気もします。昔は原田大六の名前とかよく出てきていたのに。
素晴らしい内容です。
ありがとうございます。難しい説とかはさておき、今回は基本的な部分を整理してみました。基本的な部分が整理されると、論争のレベルも上がるはず。
とにかく自分がここだと思う場所一帯を、刑事の現場百回のごとく春夏秋冬、隅から隅まで歩き回ってみることですね。そして当然ながら、反対論者の唱える場所も。
いくら文献を読み込んだところで、その土地が持っている独特の空気感、それを自分の肌身で感じとらねば、しょせん机上の空論でしょう。
おっしゃるとおりです。フィールドワークは大事だと思います。また、地域を越えた流通も重要になってくる時代なので、時間がかかっても各地を見てまわりたいです。このチャンネルも割と各地を放浪しているチャンネルではありますが、まだまだ見ておきたいところが山積みです。
地元に西暦700年頃の新田の柵という城柵が現在もあります。そこには土塁が築かれていて小高い丘になっていることから邪馬台国も小高い丘に囲まれているのではないかなと思ってました。
私も土塁のようなもの、濠を掘って、その土を積み上げて堤上にしたもの、そんなものをイメージします。ただの柵だけってことはなく、土塁があるから城という字を使っていると私も思います。
いわゆる、邪馬台国東遷説がありますけど、魏志倭人伝には、トヨの記載はあるけど、国が、東に移ったと言う記載はないので、少なくとも、トヨの時と、卑弥呼のときは、邪馬台国は、同じ場所だったと思うんですけど、仮にその後
東遷したとして、その東遷したところを、邪馬台国と言うのは、変だと、個人的には思うんですけど、あくまで、卑弥呼、トヨが居たところが、邪馬台国だと
なので、東遷説って、意味あるのかなあ?
卑弥呼と台与の邪馬台国は同じ場所だと私も思います。ただ、台与の晩年については記録ないので微妙なところかも。しかし、東遷って意外と大した話ではないのかも知れません。大和王権の王たちは世代毎に遷宮してますし。
邪馬台国というのはヤマコク(宇佐市安心院町宮ノ原遺跡、和名抄の野麻郷)に居る台(女王)の国という意味ですので、最初卑弥呼(宇佐神宮比売大神、宗像女神イチキシマヒメ)が居た場所です。卑弥呼の死後に内戦があり、その勝者が13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てたということで、台与が居た場所は転々としていることを突き止めました。
勝者は後で日本列島のほとんどの部族を傘下にしたので記紀神話で大国主とされた日本建国の主役です。山陰から越を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王です。豊岡市久久比神社の祭神で、上棟式の木霊とされたイタケルの子孫久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)です。
最初は宇佐市安心院町妻垣神社で大国主のいとこの卑弥呼を弔った後に、米神山で佐田京石などのストーンサークルを作って父の先代狗古智卑狗の霊を呼び寄せる儀式を行っています。この佐田地区で最初の国造りを行いました。記紀神話の豊葦原の瑞穂の国です。
大国主は卑弥呼よりも二十は若かったですが、五十過ぎの老人ですので、孫みたいな年の台与を妃にしています。その後に、投馬国と考える福岡県みやこ町にも滞在し、伊都国や父の息長宿禰王が治めている華奴蘇奴国(吉野ヶ里遺跡)に行ったり、あちこち出歩いています。あ、吉野ヶ里遺跡の日吉神社址の石棺は息長宿禰王のものと推理しています。体が小さかったので、巨漢だった大国主との対比から神話で少彦名命とされた、国造りのパートナーです。日吉神社の祭神のオオヤマクイは大国主の分身ですよ。
台与は記紀で神功皇后とされ、大国主は武内宿禰とされています。神功皇后の行動の軌跡が残されていますので、ほとんど台与のものだと思います。勿論三韓征伐や東征は藤原不比等の作り話ですが(*´Д`)
仲哀天皇は住吉大神の神託を信じなかったために突然死んだとありますが、仲哀天皇のモデルは狗奴国の実力者で尾張王乎止与命と推理しました。倭国征討軍の大将だったのですが、到着すると難升米が逃亡し、無傷で倭国を手に入れたので狗奴国を裏切り倭王に立ちました。しかし副将だった大国主久々遅彦らが反発して、卑弥呼の弟赤坂比古(日触使主)が大国主側について、乎止与命を鳥栖まで追い詰めて討ったと推理しました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られました。まだ、先がありますが、続きは刮目天の古代史をご参照ください( ^)o(^ )
@@katumoku10 私も邪馬台国を周防灘に面したあたりに考えているので、比売大神はまさに卑弥呼に思えます。邪馬台国と八幡信仰の関係。後世に混ざったのだとは思うのですが、私自身はまだ答えができあがっていません。いろいろ考察していきたいです。
@@takedaharuki さん そうでしたか。うれしいです。宇佐神宮は不比等とその子孫が力を入れて隠ぺいした神社です。デタラメな伝承をいくつも作っているので分かりますよ(^_-)-☆
よろしければ、「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!」をご参照ください。疑問点などお寄せください。よろしくお願いいたします( ^)o(^ )
こうやって共通の土台を作っておけば、勝手な論走でなく実のある論争も期待できそうですね。
6番目の距離については、末盧国まで一万余里、女王国まで一万二千余里で、距離も九州内でほぼ決まり。隋の裴世清が難波から飛鳥まで上るのに一月半かかったことを考えれば、使節の陸行一月を単純に距離換算するのは不適切と思います。
おっしゃる通り、共通の土台を作れば、畿内説や九州説の垣根を越えて、建設的な意見交換ができるような気がします。距離と所要日数の関係についても同感です。西域伝などを見ても、日数記事が単純に距離に置き換えらえない場合があります。
素晴らしい。
文献と考古学を両輪にして考えるべきだよなぁ。だから吉野ヶ里遺跡であれだけ盛り上がった訳で。
文献の解釈だけじゃぁ、江戸時代となんら変わらないものね。
人各々に解釈の仕方があるから、色々な意見があって然るべきだけど、文献に於いてはトンデモ解釈が多いのは事実ですなぁ。
古代中国人ではない日本人だから仕方が無いけれどね。
まぁ、トンデモ論も大好きなんですがね。
みんなトンデモ論が大好きなのも分かる気がします。吉野ヶ里の石棺を開けたら、異星人が眠っていて、突如、吉野ヶ里遺跡が地面に飲み込まれてUFOが出現するという展開、嫌いではないです。でも、トンデモ説が楽しめるのも、きっと文献や考古学での研究成果のお陰なんでしょうね。
YOさんこんにちは!おっしゃる通りです。一つの事象(考古学発見など)にいくつもの解釈ができますが、対立する解釈の中では、多分正解は一つだけです。じゃあ、その正解を見つけるにはどうするかですが、それは仮説を立てて、そう言う事象群をその仮説で統一的に解釈できると、その解釈は正解ということになりそうです。だからそういう発想なしに、ある事象の解釈に固執するのはバカげていますね。ある時代を俯瞰して事象群を並べて統一的な解釈ができるとその仮説は有望だということですよね(#^.^#)
物事を科学的に考える一つの手法ですので、古代史に適用しました。よろしければ「【刮目天の古代史」古代史を推理する」に疑問点など、いろいろとご意見をください!よろしくお願いします。(#^.^#)
邪馬台国の場所ですが、記紀には天皇家の祖であるアマテラスの生まれた場所は筑紫の日向の小戸の阿波岐原とあり、ここで筑紫の日向は九州であり、橘は福岡県八女市に立花町がありますからアマテラスは八女市立花町あたりで生まれた可能性があります。また八女市は旧山門郡で邪馬台国の最有力候補地ですから、アマテラスは邪馬台国で生まれた事になりますから邪馬台国の卑弥呼ではないでしょうか。また八女市には八女津媛神社があり、創建は719年で日本書紀の完成するちょうど1年前ですから八女津媛神社は日本書紀の完成記念に天皇家の祖であるアマテラス=卑弥呼を邪馬台国の故地の八女市に祀っているのではないでしょうか。
山門説は確かに有名です。八女と山門は隣り合わせだから、八女津媛も気になるところです。
お疲れ様です、魏志倭人伝って、ここまでたくさんの人がこだわるのは、文章自体が読み物として魅力があるからなんだろうなぁと思います。言っている事が論理的であることより嘘や矛盾を含んでいても言い方が上手な男性の方がモテるのとよく似ています。笑
考古学者でも文献と擦り合わせること自体邪道と考える人たちの方が以前は主流だったと思いますので、邪馬台国が纏向だと発言している考古学者さんたちはよりメディア向けというかリップサービスも少なからず含まれていると思います。考古学者はあくまでも出土品などの分類や編年の専門家であり邪馬台国の専門家では無いということも忘れてはいけないと思います。
魏志倭人伝に面白いさは情報量の多さにもあると思います。曖昧な部分も多いのですが、膨大な固有名詞、動植物、習慣、歴史、よく2000字に詰め込んだものだと驚きです。
文献と考古学の関係について、まさにおっしゃる通りだと思います。考古学者は邪馬台国論争にとらわれない考古学的な一次資料を提供すべきであって、考古学的な見解が邪馬台国論争に毒されてはならないと思います。
違います! と言えるハルキーさんの壮大な妄想と微細な考察を繋げる配信が面白いです。
ありがとうございます。誰もが知っている事柄で、かつ、いざ考えてみると本当に正しいのかなと思えるようなものをピックアップしてみました。こういう基本的な部分の整理こそが、邪馬台国論争を前進させるような気がします。しかし、後から自分の動画を見てみると、きっぱり「違います!」とか、よくぞ抜け抜けと言っているなぁと思いつつ、そのノリが面白いです。
昨日のNスペの内容取り上げてほしいです
石蓋の線刻については一度動画にしたいです。次回は吉野ヶ里の石棺に絡めて、赤色顔料がテーマなので、若干、Nスペの内容も盛り込んでみます。星図については面白いと思いつつ、寺沢薫の弥生時代の副葬品についての見解は認識が少し違っているような気がしました。
@@takedaharuki クロ現でした、失礼しました。星図説はめちゃめちゃおもしろかったです!
いつも楽しく視聴させて頂いています。阿波説の動画を見る機会がありましたら。ハルキーさんにとっては「アホですか」になりますでしょうか?
ありがとうございます。阿波説の動画見てみたいと思います。私にとってはどの説もそれほど気高いものではなく「アホですか」みたいなところがあります。でも、同じアホなら、見て楽しんで自分の知識にして成長したいです。
ご返信ありがとうございます。もしネタにして頂けたら嬉しいです。
NHK7/4録画したが天文学者が出席してて興味わいた 冬の満月が北東方向から空高くあがる理由考えて検索して理解できたのは収穫でした12連発納得
ありがとうございます。方位が季節の影響を受けるということは地軸の傾きが影響しているのかな。知識を一つまた一つと積み重ねていく。そういう点でも歴史研究というのは楽しいです。
@@takedaharuki 本格的ポールシフトが起こる前に邪馬台国問題は解決したいね多少強引でも 10年前と気候はかわっているんだし 降水帯 黄砂とか温暖化
@@高橋邦雄-z2u そうですね。生きている間にいくつかの謎を解明したいです
@@takedaharuki さん
地球には、赤道と黄道(太陽が通る道)と白道(月が通る道)があります。
地球の公転面に対して地軸は23.4度傾いているため、赤道と黄道は一致しません。
また、月の公転面は黄道面に対して5度傾いています。日食や月食が新月や満月のたびに
起きるわけではないのは、こういう理由です。
さて、中国ではすでに農業がおこなわれています。
種まきや収穫の時期を正確に決めないといけないので、星を読むことは普通に行われてて
北極星は時刻・季節に寄らずほぼ一定ということなどの知識があったはず。
であれば、北極星から考えた東と、月の出から見た東(と思う方向)は、多少ズレる
ということも知っていたと思います。
いつも辛口の動画を楽しんでおります。
「年已長大」は何時の時点でのことを言っているのかが気になります。文章の流れから考えると卑弥呼が共立された時点のことだと思います。その時には成人に達していたということでしょうか。卑弥呼の時代において成人が何歳かわかりませんが、2世紀末に共立されたとすると248年に亡くなったときは相当年寄りだったことになります
そこのところ私も気になっています。共立の時であれば、当時の成人だから14歳以上、魏に使者を派遣した頃であれば、言わずもがな成人。この文章は結婚していないということとセットの文章なのですが、魏の使者はどちらのことを記したかったのか気になるところです。こういった記述は魏志倭人伝や後漢書などで並びも変わり、悩ましいところです。
@@takedaharuki 魏志倭人伝を見直してみましたが、続く文章に「有男弟佐治國」とあるので、弟が国を治めるのを助けられる年齢(二十歳以上だとしたら卑弥呼はもっと年上)だったようです。
一連の文章のソースは倭国の難升米等から聞いた話の報告書だったのでしょうか。あるいは正始元年(240年)に梯儁等が倭国に来たときの報告書が元になっていたのかもしれません。正始八年(247年)に張政等が倭国に来たときには卑弥呼はすでに亡くなっていたようですから。
@@rgbcmyk39 さん 弟の件、同感です。卑弥呼は女王とされたときは二十代後半かな?男弟とされた政治を行っていた本当の倭国王が、正始八年(247年)少帝芳の詔勅と黄憧が渡された伊都国男王だと分かりました。卑弥呼よりもすこしだけ年下だったと思います。景初三年(239年)六月帯方郡に派遣された大夫難升米です。伊都国という、魏志倭人伝に登場する倭国の国名としては特異な、深い意味のあるものなので、検討していくと漢字を読み書きできる教養人の難升米が倭の回土(ウィト)国王師升の一族の頭(かしら)という意味だったことが分かりました。そして、行程記事がある政治的な目的で難升米によってすべて漢字で書かれ、帯方郡太守劉夏の報告書に残されたということも分かりました。邪馬台国への行程が政治的な理由で書かれているので、どんなに正しく行程記事を解釈しようとも、これだけでは正解にはたどり着けないのです。ですから、二世紀末(弥生後期後半)の鉄の交易ルートと鉄鏃・銅鏃の出土状況などを調べて、倭国大乱の痕跡も発見し、卑弥呼がどういう人物なのかも分かりました!詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(#^.^#)
@@katumoku10 さん 私も伊都国が魏志倭人伝を読み解くときのキーになると思います。「世々王がありみな女王国に属している」とか「女王国より北に一大率を置いて...常に伊都国で治めている」などの記述、平原遺跡の威信財など伊都国は当時とても重要な国だったようですね。
倭国大乱が180年前後だとして、それよりも前の70~80年間は男子を王としていたとあるので、ちょうど倭国王帥升が後漢に朝貢した107年にピッタリです。
ご紹介いただいた「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」を拝見します。
@@rgbcmyk39 続く文章に「有男弟佐治國」。うっかり見落としていました。なるほどです。私にとっては目から鱗の発見です。ありがとうございます。
なるほど、この展開があったか!という感じで楽しく拝見しました。今度ライブの時にこの構造でしゃべってみたいと思います
それにしても 途中何度か大笑いしました!!(笑)
邪馬台国論争の結論ではなく、手法などについてもいろいろ思うところがあったりします。自身を見つめなおす意味でも、それらを動画にしてみました。そうそう。ライブありがとうございました。楽しかったです。リアルタイムであれだけいつもどおり話せる古荘さんを尊敬します。講演会の方は都合がついたら見に行きたいと思います。
なるほどですね。自己確認のため!
ライブ、全く自己主張的な(笑)コメントがなく平和裏に終わりました(笑)
バルキーさんがチャット登場してくれるとハクガ付き、みなさんも喜んでましたね
@@ancientJapanesehistorywithMAP あのライブを楽しめたのは、きっと、みんな大人だったからでしょうね。みんな邪馬台国についていろいろと思うところや言いたいことがあるはず。でも、みんな譲り合うようにコメントしてました。そして、古荘さんのなごやかな語りも穏やかな雰囲気を作ってくれました。私自身、殺伐とした論争よりも、こういったまったりとした雰囲気が大好きです。
@@takedaharuki 恐縮です
これからも励んで行きます
古代日本史についてピンポイント的な知識しか無い私から見て、分かる範囲内では「ほぼ同意」です。
知らない事は多々あります。例えば、そもそも「考古学」って何?今どういうジャンルまでを含んでるの? とか。(高校時代「郷土研究部」でしたが、当時の考古学って「文学部」だと知り驚愕!一応理系だったので別の進路にしたのです。)
「弥生時代」と「古墳時代」とか、なんで西暦で無く「時代」で説明するの? とか。(だって「時代の定義」は研究が進んで発見が有ると、年代が変わりますよね?)
定年過ぎて、「学び直し」をしてるのですが、理系も文系も「定義」が全く様変わりしていて、何が何だか?(浦島太郎状態ですよ。しかも、情報にウソが多い事!)
ありがとうございます。実は私も考古学が文学部と知ったのは大学に入ってからでした。大人になって考古学を改めて学んでみると、定義の変更が多い上に、今の考古学者の主張が必ずしも正しくなさそうだということに気づかされます。楽しむ側の我々も、たとえ専門でなくても、長く生きてきた経験を活かし、一つ一つ、それは本当なのだろうかと考えることが大事なんでしょうね。
年齢が長大。
と中国とは違う暦(習慣)云々は
連動していて
春分の日(春正月)と、
秋分の日(秋正月)
の今の半年が一歳。
結果、一年二歳暦なので
10歳の少年→二十歳。
30歳の大人→六十歳
40歳の中年→八十歳
50歳の壮年→1百歳
60歳のお疲れ様は120歳。
70歳の人は140歳
と普通に言うから、中国人はびっくりした。
因みに、↑の一年二歳暦の名残が
年末と6月末日の大祓行事では?
暦についてはいろいろと難しいのですが、盆と正月も似ている気がします。
大祓行事は1年2歳暦の名残であるとすれば、倭人が1年2歳暦を使ってたとして、記載の
人寿を説明可能です。
ですが、ここは「其人壽考或百年或八九十年」とあり「その人寿は100年あるいは80~
90年と『考えられる』」と断定ではなく推定(伝聞ではない)で書かれています。
魏の使者が倭人の老人を見て年齢を推測したんだと思います。
<インド>老婆の心 ── 高橋邦典フォト・ジャーナル で調べてみてください。
魏の人間(北方)より倭国の方が日光が強いし、海に入ると歳とって皮膚にダメージが来ます。
丹の主成分の硫化水銀は化学的に安定ですが、加熱すると昇華します。
水銀蒸気で重金属中毒を起こしていたかも知れません。
また大酒飲みは歳とって肝臓を傷める可能性が高いです。
特に弥生人には下戸が存在するとあります。中国南部由来とも推測されています。
参照: Wikipedia日本語版 弥生人
これらの事より、魏の使者には80~100歳に思えた。ということかも知れません。
@@takedaharuki
春分の日と秋分の日の
『春正月』と秋正月には
神と呼ばれた特権階級の人々(各地の首長)が
土産物(文字通りに土地の産物等)を持参して
出雲王国の当代の王さまが座す王宮に参賀。
併せて出雲王は国会を召集して国事を議して
様々な案件が議決された。
議決された案件は
今度は国祭主の姫巫女でもある
出雲王后(皇后)に附託されて
出雲王国の国教、
幸の神信仰の神々に奏され、その是非を諮問。
結果が
吉ならば実行され、
凶ならば差し戻しか、破棄された。
↑の一連の事を
『まつりごと』と称したとか。
ある種、現代の我が国の政体(立憲君主議会政治)に比較的近かったのかもしれません。
↑の、まつりごと。が終わると
一同、今度は王宮前の広場、大庭。に移動して
王家主催で王国の大祭が
姫巫女の出雲王后の主宰で挙行された。
出雲の神々は各人の祖先霊と渾然一体となった
大祖霊神でもあって
この大祭は各人の祖霊祭祀の一面があった。
ところで、
出雲の祭には余興と酒が付き物だった。
実は参集した皆はコチラが楽しみにしていたとか。
@@森岩光 二回の正月は私も聞いたことがあります。盆と正月。酒は確かに必須アイテムですね。
ほぼアクションシーンでしたが、まあそれがインディですよね。
それはさておきトンデモ話しだしたら突っ込もうかと思ったが、至って真面目な話でした。
アクションシーン。確かに多かったです。最後の聖戦に比べると地味な展開でしたが、私の中でしっくりとインディ・ジョーンズシリーズのラストを堪能できた気がします。高校の頃にテレビで見て興奮し、50を超え、時の流れを感じたドラマでした。
配信ありがとうございます。
観なければいけない身体になったのかな\(^^)/
ありがとうございます。その時の思い付きで動画を配信してしまってますが、こうやってみんなに見てもらい、嬉しい限りです。
つり橋を叩いたら真っ逆さま
そのインディジョーンズなみの勇気もありかも。川にワニがいなければ。(^^;
こんにちわ( ・ิω・ิ)今回もスッキリする動画ありがとうございます。畿内説派の纒向遺跡には城柵以前に環濠が無いんですが、平和になり埋めたんですかね??(唐古・鍵遺跡にはありますが)そういった説明は皆無なので説明いただきたいなと思ってます(¯―¯٥)
ありがとうございます。おっしゃるとおり纒向遺跡には環濠がないです。この点が魏志倭人伝とは齟齬します。一方で大溝や古墳といった土木工事を行っているので、決して技術や権力がなかったわけでもないようです。古墳時代は、首都で戦いが繰り広げられるような時代ではなかったのかも知れませんね。中世の城も最初は実用的だけど、最後の方の天守も備えた立派な城が全然実戦に使われないケースも多いようですし。
普通に考えれば吉野ケ里、平塚川添、方保田東原、小迫辻原遺跡といった環濠を備えた遺跡が多い九州が有力ですよね(¯―¯٥)
@@隆一西 城柵の記述などから、私はそんなイメージです。これを踏まえた上での畿内説の主張もありだとは思うのですが、「魏志倭人伝は信用できない」という主張だけはなかなか納得できないものがあります。
@@takedaharuki さん おっしゃるとおりです。内容的に明らかにおかしいところがありますが、編纂者の目的や編纂者が参照した文献の目的を推理すると、どこが潤色や改ざんなのかを見極められますよ。すべてを無視するのも間違いですね。詳しくは「刮目天の古代史 魏志倭人伝の真実?」をご参照ください( ^)o(^ )
ベタですけど、侏儒國こと種子島から北に短里で四千余里に女王国があったと思っているので自分は九州説しかありえませんねw
長里でも短里でも畿内から南に四千余里行った所に弥生時代~古墳時代に背の低い人々が住んでいたと証明できる場所が在るなら教えてくれた人に感謝するぐらいに節操有りませんが😂
そんなこんなの思考のオマケで種=砂鉄→種子島=砂鉄の島って島名かなんて気づいたんですけどね@気づいてから砂鉄が沢山採れると知りました。宇宙も好きなので種子島にはいつか行ってみたいです。
遠絶は「遠」と「絶」があるだけで「倭国」という単位ならば九州島内に周辺國も在るって信じてます。
侏儒國と種子島。すっかり忘れてました。そうそう、以前、そっちの方を考えてました。実際、背の低い人骨が見つかっていたりと興味深い情報もあります。あの12の見解は私の主観に過ぎないから、幾つかは意見が分かれるところのはず。考えが全く同じ人がいないというのがこの世界の面白さです。確かに遠い近いは相対的なものではあります。
侏儒国は「女王国から」でも「邪馬壱国」でもなく「去女王四千餘里」女王を去ることです。
女王は侏儒国の北4000里にいたと読めます。
女王の居場所を北部九州にするなら、短里4000里320kmくらいで種子島です。
GoogleMapで確認できます。
魏の当時、1尺は24cmでした。種子島の広田遺跡から出土した人骨は、成人男性平均で154cm
人長三四尺だと75~100cm弱ですので、合わない。
これは百貫デブが本当に体重375kgの人を言うわけではないのと同じく、低身長の比喩
だと思っています。
ただ、調べたけどそういう比喩があったという情報は見つかりませんでした。
本編の解説は全くもって納得ですね!「簡単な嘘がまかり通っている」には思わずTVの前ににじり寄りました。(^-^)
その嘘をゴリ押しする方が主流派だなんて・・”学会”は既得権益(白い巨塔の世界)にしがみ付く守旧派に握られている?笑笑
普段、薄々と思っていたことを今回動画にしてみました。30年くらい古代史を趣味にしていると、実は基本的な誤りについての解説を十数年以上も前にすでに聞いていたりもします。やがてみんなそのことに気づくのですが、今から邪馬台国論争を楽しむ人のために、王道は無理でも近道を提供できればとも思い、動画にしてみました。考古学会は権威がある分、確かにごり押しの傾向を感じます。そして急先鋒の人ほど、そのことに気づいていない感じです。
@@takedaharuki さん おっしゃるとおりです。権威は科学的探究を邪魔するものです。自由な発想を妨げますから!思い込みを無くして自分自身の頭で論理的に考えると答えが出てきますよね(^_-)-☆
古代史問題の科学的な解決手法を提案していますので、「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をお暇の時にどうぞ!失礼しました(#^.^#)
お!師匠久々の辛口ドライ動画ありがとうございました。
ベラの鞭と思いましたが、ガリアンソードもありかな?
中国語の文献ですから日本語で解釈しても意味ないのでは?
多くの文字は、略字化されていますけど、徑は略字の径を使ってないのでは?なら中国語の道端の意味では?街道沿いに墓を作った。?略字の径なら半径や直径と略字変換した人がそう解釈したんだとおもうんですけど。
中国語では、南東が方位で東南は海岸の意味で使われる事ありますよ。
時系列の繰り返し記述ですから長大の意味の使い方ちがうのでは?大も父親の意味で使う事もあるので、卑彌呼以死大作冢徑百餘步は、卑弥呼の父親が死んだので道端に見えるように墓を作ったとも中国語の意味にもなりますし。。。。
南至邪馬壹國の南至が方位の南と解釈されているのは、理解できますが当時は、南至は冬至。到着した季節だったのでは?
景初二年六月からの其年十二月詔書報倭女王・洛阳から半年以内の場所に卑弥呼はいてますが、出迎えにいったのでは?
正始元年の時系列には到着した月がありませんから
景初2年12月20日頃南至=冬至の部分にあったのでは???
もっとも、日本を南に長い島と誤解されてるのは、邪馬台国・投馬国の馬が南のいみだからかも???
倭人の方位は干支じゃ?蛇馬・蛇と馬の方位の通訳からのパッチワークミスなら邪馬壹国は帯方から5時~6時の方向にあるのかも?しれませんけど(笑)豊前と筑前付近に爰及東夷使譯時通記述隨事豈常也哉。語り部は滞在していたのでは???
ついつい邪馬台国ネタやってしまいました。使譯(通訳)については当たり前のようにいたと思います。
@@takedaharuki 師匠が想定してる集団墓。
東南を海岸線と中国語の意味を使うと豊前あたり
かと?
語り部や通訳は、リアルワールドの人だから、必ず正解になる漢字の意味があるはず?
ただ、中国語漢字も日本語漢字も莫大な数の意味があるし、原字からの略字の解釈もあるので、、、
壹と壱は、臺には派生しません。
臺は、怡や台に派生していきます。
壹や壱は、台にはならないので、台の意味の解釈は、当時の写本した人達の逃げ道。意味の中央官庁にしておけば、日本の統治者の意味で逃げれますから。
後漢や魏が、地方自治体と交流してたのを嫌ったのか?朝貢国『意味は辞書参照願います』
主従関係ありませんから、貿易相手国として挨拶。
親魏倭王も、今で言う親展の意味ぐらい?本人確認印ですよね。
女王国の共立国と通信していたのか?
共立国30を1国と考え29の吉備や大和や美濃や近江と通信していたのか?
師匠は、後者なんでしょうね(笑)
配信ご苦労様です!!
のったりとしたBGM、それに似合わぬ鋭い考察有り難うございます!!
とても良く理解できました。
多くの学者が人生をかけて調べ上げてきたことですが、『交易の始まりに(帯方郡の)使者が九州北部に上陸していた』
ぐらいしか決定的なことは解っていなくて。
それ以外は『誰の主張も正しい』と言いきれない。
ことによると、邪馬台国や卑弥呼の存在すら有ったことの確証が無い。
私は最近邪馬台国と卑弥呼の謎を追い始めましたが、稚拙な私の知識でも十分楽しめる分野かなと思い取り組んでいます。
このチャンネルも大いに参考にさせて頂きますね。
キダイダー面白いし ・・・ ^-^
これからもよろしくお願いします!!
ああっ!! 神戸から発信されているのですね~ 奇遇です!!
誰の主張も正しいとは言い切れない。おっしゃるとおりです。また、この問題、学者さんの聖域かと言えば、そうでもない気がします。学者でないと分からない専門的な部分も多いのですが、一方で専門家以外でも考えられる常識的な理解の部分もあります。そこが楽しいです。これからもよろしくお願いします。生まれも育ちも神戸。神戸っ子です。
いつも楽しく拝見しています。
邪馬台国の時代だけを調べている人間に嘘臭い人が多いように感じます(失礼!)
弥生中期から古墳中期までの流れの中で決まる気がして勉強中です。
いつか新羅本紀と邪馬台国+ヤマトの関わりを解説して頂きたいです。
ありがとうございます。確かに邪馬台国論争だけの人は結構厄介だったりもします。弥生時代と古墳時代の過渡期とか私も大好きです。楽浪土器、陶質土器などをもっと勉強し、三国史記の構成を紐解いて、いつか動画にしたいと思います。誰か原三国史記的な研究してないかなぁ。
溜飲が下がる思いがします。
ありがとうございます。邪馬台国論争で多くの人が勘違いしているだろうと私が考えていることを述べてみました。こういう地味なテーマも意外と身近な部分なので結構面白いかも。
私は邪馬台国論争はすでに九州説で決定していると思います(私は北部九州説です)。なぜなら邪馬台国を知るには、現在では魏志倭人伝の記述に頼るしかないからです。江戸時代と違い、現代は情報社会です。倭人伝に書かれている邪馬台国の様子を、考古学的に発見し具体的な根拠として挙げているのは九州のみです。邪馬台国ソックリの楼観を含む環濠集落、さらに当時は絹の使用も書かれていますが、これも長崎・佐賀・福岡県のみの発見です。未だに他の地区での発見はありません。矢じりなどの鉄器の使用も書かれていますが、これも福岡県で700以上の発見に対し奈良県はわずか4個と圧倒しています。これらのデータにはTV番組でも畿内説学者からは異論も出ず、何を具体的根拠として未だに粘っているのか伺いたいです。畿内説の最後の望みだった纏向遺跡も、私が見聞きしただけでも3人の発掘学者がここは邪馬台国では無いと言っています。もう何年発掘していますか?
別方面からの考え方として、NHKの番組で取り上げられていましたが、魏の使者は何を目的に邪馬台国を訪れたかに注目していました。当時の魏は周りの国と緊張状態にあり、敵対国の背後から牽制するため、軍事同盟を結ぶのが目的と言われています。ここまで書くと分かりますが、イザという時に全く間に合わない遠方の畿内などに用はありません。海を渡ってすぐ鉄器や絹を使う強国があるのに、はるか遠くで鉄器もほとんどない所に行く暇はないでしょう。これを最初に聞いたときは、なるほどと感心しました。これに対する反論は未だ聞いたことがありません。
私も同じ見解です。現在の邪馬台国論争において「考古学的」という言葉が「考古学的に魏志倭人伝に齟齬しない」と「考古学的に古墳時代の権力が弥生時代の権力より大きい」の2種類あるように思います。私自身も前者で考えており、結果、九州説の立場です。
とりあえず、倭王卑弥呼がいたところか、女王がいる邪馬台国か、どこを探すのか皆さんスタートがあいまいです。
原文には邪馬台国に卑弥呼がいる、とは一言も書いてなくそれは皆さんの脳内補完にしかすぎないのでしょうか。
「南至邪馬壹國。女王之所都」の一文があるので、邪馬台国に卑弥呼がいると予想するのは、まぁまぁ一理あるとは思います。ただ、おっしゃる通り、邪馬台国論争のスタート(出発点)がどこかにあるべきか、考えることも重要だと思います。
おっしゃる通りですが、魏志倭人伝の元ネタに卑弥呼と書いた人物も特定しました。邪馬台国というのはヤマコクの台(女王)が治める国という意味です。本当は女王ではなく姫巫女(ひめご)なのですが、政治的な理由から洛陽から万七千里に女王の都があったとしたかったということなのです。ですからいくら行程記事だけ正しく解釈しようとしても正解にはたどり着けなかったのです。なので当時の考古学と民俗学の成果から推理しました。よろしければ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(#^.^#)
@@takedaharuki
一理あると思われる読み方で論理を組み立て、議論を重ねてここまで答えが出ないということは、常識と思われていることが実は思い込みから始まっている不確かなものだったと。そこに気づけるかが今の場所に留まるか、一つ上に行けるかの境い目です。
@@katumoku10 「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院にあった!」。少しだけ斜め読みしてみました。詳細でびっくりです。壮大なため、今の私がすぐに評価できるものではありませんが、考古学的な点を踏まえての考察は説得力があるように思いました。
@@kenn8438 おっしゃること、そうかも知れません。学問に限らずですが、思い込みというのは視野を狭くし、本質を見落とすことになるため、禁物だと私も思います。ただ、視野広くあることは、なかなか難しいところではあります。日々、努力を続けます。
お待ちしておりました‼︎ズサ━━━━⊂(><。⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!
ありがとうございます。§(・・)§
いろいろと勉強になる考察をありがとうございます。
ひとつだけ教えて欲しいのですが、径は確かに「さしわたし」と説明されています。しかし、塚(墓)の話なので、おっしゃるとおり方形墓なら方〇歩とか表現されるかと思います。卑弥呼の墓の説明の前段に、倭人は土を封じて(盛り上げて)塚を造るとありますので、径は直径と読むのが妥当だと思います。
そして、卑弥呼の塚が直径百余歩(約150m)の円墳(古墳時代初頭とするなら)と考えるのが妥当だと思います。この規模の巨大円墳はざらにあるものではなく、先日話題になった奈良市富雄丸山古墳は4世紀後半に作られたもので、小さな造り出しがあるものの直径110mの円墳です。超豪華な副葬品から考えても大王に匹敵するものです。被葬者は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と推定しています。この人物は応神天皇の皇太子とされ、母は和邇氏の祖日触使主の女です。
そして、日本最大の円墳と言われてましたが、これよりも巨大な円墳を三つ発見しており、いずれも和邇氏のものです。その中の最大の円墳が宇佐市安心院町「三柱山古墳」で直径約150mなのです。様々な状況から卑弥呼のものであろうと考えています。
邪馬台国が七万余戸とあるので、多くの史学者や考古学者は卑弥呼も大規模集落に居たと考えていますが、七万余戸は当時、最大の都会だった比恵・那珂遺跡群のあった奴国で二万余戸です。最盛期には吉野ヶ里遺跡の4倍の広さでした。そのような奴国の3.5倍の戸数の超巨大集落は現在まで発見されてはいませんから、政治的な理由で倭国を大国に見せたいために書かれたものだと考えるのが妥当です。そして、当時は卑弥呼が女王に立って倭国大乱が終わったと思われていますが、狗奴国が敵対勢力としてあるので、多くの一般人が出入りするような大規模集落は危険です。女王は多くの民衆が居住する集落から少し離れた要害堅固な城砦に厳重に兵士に護られて居たと考えるのが自然だと思います。
三柱山古墳のあった宮ノ原遺跡にある三女神社が卑弥呼の宮室と考えられ、その西側に幅2.5m深さ1mのV字溝があり城柵があったと考えられます。また南側は10m程度の崖になっており、その下を川が流れています。内部には土塁跡も見られます。戦乱期の女王の居城に相応しい山城になっています。
この遺跡には三柱山古墳よりも一回り小さな円墳「奥城古墳」があり、卑弥呼の父の赤坂比古(和邇氏の祖、日触使主の父と推定)が被葬者と考えています。詳しい内容は「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」にありますので、是非専門的なご意見を頂戴したいと思います。突然で恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。
ご意見ありがとうございます。私自身は冢が墳とイコールとは限らず、径は直径に限らないと考えています。そして、その足枷によって集団墓、弥生墳丘墓、前方後円墳の可能性が否定され、世の中が前方後円墳の後円部のみといった考えに限定されてしまわないかと懸念しています。
三柱山古墳についてはよく知らないので答えようがないのですが、古墳なら弥生時代ではないということになります。古墳なら版築を行って真円のものも存在すると思いますが、一方で古墳時代だと150メートルの規模は巨大前方後円墳に比すればさほど大きくはないです。また、弥生時代なら150メートルは随一の大きさとなりますが、版築・真円のはすがなく、その名のとおり古墳のはずもないです。手元に資料がないので、このあたりの位置づけがよく分からないです。
宮ノ原遺跡の城柵。幅2.5m深さ1mのV字溝なら、卑弥呼の居する所のイメージに近いと私も思います。「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」については、機会があったら読んでみたいと思います。
@@takedaharuki さん 早速ご回答有難うございます。なるほど、集団墓まで視野に入れたら、限りなく範囲が広がりますから、残念ながら墓は決め手にはなりませんね(*´Д`)
でも、墓が決め手にならなければ、外のものは、例えば金印などは、人が簡単に持ち運べますし、たとえ女性の墓にあったとしても、決め手にはならないと思いますよ。
つまり、何をもって邪馬台国とするかは皆目わからないということになりませんか?
わたしも、纏向遺跡に代表される畿内説は、魏志倭人伝の記述にほとんど合致しませんので、あり得ないと思います。倭国というのは少なくとも3世紀半ばまでは北部九州が中心と思っています。また、多くの皆さんは現存する最古の歴史書が天皇が編纂を命じたので、天皇の歴史書だと思っていますが、全くの思い込みだということが考古学や民俗学の成果から分かってきました。例えば、日本最古の王墓が福岡市吉武高木遺跡にあると分かっていても、被葬者が天御中主、天村雲尊そして天八重雲尊の墓だと気づけません。三種の神器が出ているにもかかわらずですから強い思い込みが真相解明を邪魔しているようです。よろしければ、是非、拙ブログを読んでいただけると、気づかれることが出てくるかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。お邪魔しました(^^;)
年齢については台与の様にはっきり13と明記されてる例もありますね。
畿内説の立場ですが箸墓の重要な点を忘れていますよ、あの規模の墓を連続して三世紀末以降に多く出来る場所=人員を動員出来る七万戸の証拠となります。
それに九州説は相変わらず戸数を無視されているのが気になりますね。距離と戸数は同時に考察しないとダメです。
また卑弥呼の鬼道=神仙思想の影響下ではないのでしょか?
畿内説ならこれは神獣鏡の多量の出土から簡単に説明が出来ます。
これ等について何時まで無視されるのですかね?
これ等から文献史学でも九州説は全く矛盾だらけだと思いますよ。
纏向説の方は箸墓が卑弥呼の墓としていますが、卑弥呼は正始八年(247年)に帯方郡に使者を派遣し、狗奴国との戦争を報告すると、直ぐに魏使張政が詔勅と黄憧を持って倭国に到着し、そのときにはすでに卑弥呼は死んでいたとあり、墓の説明が書かれていますから、卑弥呼の墓は急造したものだと分かります。
箸墓のような立派な前方後円墳は、おっしゃるとおり大人数が造営に参加し、いくら夜は神が造ったとしても、短期間にできるものではありません。
そして、卑弥呼の死後にあらためて男王が立ち、不服な勢力との内戦が勃発し、千人くらいが死んでいます。
そんな状況で箸墓を造営する力のある人物が居たとしたら、内戦になるわけないと思いませんか?
おっしゃるとおり箸墓は三世紀末から四世紀築造と考えられますので、247年の卑弥呼の死と箸墓の築造年代が合致しません。
そして、箸墓はヤマト王権が成立し、多くの民を動員できる時代になってからと考えると築造は四世紀初頭というのが妥当でしょう。そう考えると、箸墓は卑弥呼のものである可能性はありません。
その他の倭国についての記述は纏向遺跡とほとんど合致していませんから、邪馬台国でないことは明確なのです。
ですがヤマト王権発祥の地であることは事実ですので、当時の日本の中で中心的な存在だったと分かります。それはこの時代に、列島各地からの外来土器がこれほど出土した遺跡もありませんし、建物も掘立柱構造の、いわゆる高貴な身分の人間の住まいが多数あり、大型の祭祀用建物や祭祀に使った大量の桃の種などから考えると纏向遺跡の首長が日本を建国した求心力のある人物と言えそうです。
そして面白いことに九州の土器がほとんど発見されていないのです。重要な纏向での祭祀に倭国の人間が参加していませんから、当時倭国と対立していた狗奴国と考えるのがよさそうです。北部九州の倭国には畿内や東海、山陰などの外来土器が多数見つかっていますから、纏向に集まった勢力が倭国を滅ぼして日本を建国したと考える方が自然です。いかがでしょうか?(#^.^#)
当時の奈良盆地に七万戸は厳しいかなと予想します。逆に言えば、当時の奈良盆地の七万戸が証明できなければ畿内説は成立しないという理屈になるため、さすがに畿内説の人たちでもそういったことは言っていないと思います。また、神獣鏡が出たら邪馬台国といった理屈もよく分からないです。鬼道を行ったからといって神獣鏡を作るとは限らないため、三段論法の一段目でこけていると思います。で、私の言わんとしていることは、こういった個人の思い込みレベルを脱却し、それぞれが納得できる確かな共通認識を根拠にしなければ、まともな議論は始まらないということです。
@@takedaharuki 勿論私も七万戸という国が奈良盆地に存在出来るとは思わないです。
巻向遺跡=邪馬台国とされる畿内説の方にも私は批判しています。
魏志韓伝における韓半島の国々、馬韓、辰、高句麗の数字を見ると
おのおの十万、四、五万、三万戸ですからね。
少なくとも邪馬台国の七万戸が九州に収まるような場所はとても考えられないと思います。
魏志倭人伝における邪馬台国の情報も改めて明確にしておきます。
まず投馬国より遠方で五万戸よりも多い、七万戸の大国だという事。
辰よりも大きく馬韓より少し小さい位の国だと魏では捉えられていた点。
また卑弥呼が都としていた国で鬼道の影響下が残っている場所。
邪馬台国の情報なんてこれだけですからね。
後の魏志倭人伝の記述は倭人の国の情報にしか過ぎないです。
そうなると三世紀以降に畿内中心に出土が見られる画文帯神獣鏡、また三世紀半ば以降大量に出土が確認される三角縁神獣鏡は、時期的にも卑弥呼の用いた鬼道の証と捉えるのは自然だと思いますね。
三角縁神獣鏡を国産として卑弥呼の鏡ではない、と大騒ぎされていたのが九州説の方々の大きな間違いなんですよ。
三国志において鬼道の説明してある文章、初期道教と明記されてるのは無視できないですからね。
神獣鏡の大量出土=神仙思想の影響下にある場所です、これは北部九州にも確認されてますよね?
対して熊本や大分宮崎等は殆んど出土しない、卑弥呼の鬼道の影響下が無かったエリアと考えればいいと思います。
@@katumoku10 私の考察とはかなり異なりますね。
北部九州はやはり半島、大陸への重要拠点なのは明白で、伊都とは出雲方面、つまり本州以東や瀬戸内海の水運勢力が設けた国だと思います。
箸墓始め大規模な古墳を造る労働力に九州辺りから動員する事はないでしょう、戦乱の地である北部九州に投入されるでしょ?
倭国最大の国である畿内にある邪馬台国だから、大規模古墳を造る労働力を周辺から集める事が出来る、単純な話だと思います。
@@トミヤマ-c6r 人口についてはどの説でも過大となるため、少なくとも何かしらの解釈をすることになります。その解釈がすべての人に納得できるものであれば、議論は収束に向かいますが、方位や距離を無視して良いなどの自由がまかり通る邪馬台国論争の世界なので、おそらく水掛け論に終わると思います。また、神獣鏡に重きを置かれていますが、それは諸刃の剣に思えます。物事は一点から見ればすごく完璧なものに見えますが、別の方向から見ればそれが弱点になることもあります。たとえば、三角縁神獣鏡の神獣配置は中国の神仙思想を逸脱しています。もし、おっしゃるとおり鬼道と原始道教がイコールなら、逸脱した神仙配置となっている銅鏡を配布する畿内は神仙思想を知らないから鬼道の卑弥呼とは関係ないといった主張もできてしまいます。私からすればどちらも極論です。私が懸念するのは、解釈の余地のあるものが根拠の場合、きっと水掛け論に終わってしまうだろうといったあたりです。共通認識にできる根拠を揃えていけば。邪馬台国論争は収束に向かうはずですが、みんな手を抜きすぎているような気がします。証明って本来結構難しいものです。
コメントありがとうございます。今は誇大妄想探訪の倭人伝を読み返したらあの国が通説とは違う場所になってしまったを5回は見たところです 糸島は伊都国ではない やまいちこく
壱国 壱与であり臺与ではない センチメンタルジャーニー松本伊代も最近懐かしく聞いたけど柔らか頭で考えないと 脱字失礼いたしました
中国史書の当初の形を考えるのは、なかなか難しいところがあります。
@@takedaharuki 後漢書 魏略 魏志韓伝 の和訳は読めますよ原文 和訳と解説 音読もしてくれる 中検4級基礎的な資格もある
畿内説の根拠は邪馬台≒大和、故に奈良ってだけだし
畿内説のそもそもの根拠はそこなんだろうなぁと私も思います。九州説は魏志倭人伝の旅程記事に重きを置くから違う結論。それらの仕組みが分かっていたら、邪馬台国論争も所詮は主観の相違に過ぎず、結論ではなく、その主観の相違についての地味な議論だけになるような気もします。
@@takedaharuki さん 三世紀の纏向遺跡の外来土器の調査で北部九州の土器はほとんどありません。魏志倭人伝に伊都国の一大率が女王への貢物や外国への贈り物をチェックすると書かれており、伊都国の人々と交流のない纏向遺跡に女王はいません!
それどころか、三世紀初頭の纏向遺跡での最初の前方後円墳石塚古墳やそれ以降の重要な祭祀に北部九州の倭国の人が参加していないのですから、纏向遺跡は倭国と敵対勢力です。魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の南とあるので騙されますが、纏向遺跡にあった狗奴国が倭国を滅ぼしてヤマト王権が成立したと考えるの自然です。なぜなら、奈良盆地で大きな戦乱の痕跡はありませんでしたから。九州の邪馬台国が東遷したということもありません。そして、一方的に北部九州の倭国に、纏向に集まった人々が押し寄せてヤマト王権が成立したと考古学の成果から分かりましたから。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください( ^)o(^ )
普通に考えて、あんなええ加減のデータ調べてどうするの?
宜保愛子さんに霊視してもらえば良かったのに!
言葉がええ加減なため、言わんとしていることが理解できません。もう少しちゃんとした日本語でお願いします。